リテールの世界ではコード決済をはじめとしたフィンテックが浸透してきていますが、日本のフィンテックを知るためにはもう一つ重要な視点があります。それは法人間取引でのフィンテックの進み方ですね。
法人と法人の取引では、掛け売り・掛け買いといった日本特有の商慣行によって、フィンテックはなかなか浸透しにくい状況にあります。そうした経理面での慣行には、スタートアップが新規参入するためのハードルを上げている問題も存在します。
今回はそうした問題などについて、京都大学公共政策大学院の岩下直行教授に、以下のような項目から教えていただきました。
- 世界から見た日本のフィンテック事情
- 暗号資産はフィンテックに含むか?
- 個人(リテール)のフィンテックは比較的進んでいるが、課題もある
- 法人間取引の現状や課題と、フィンテックが提案した変化の兆し
- 日本の商慣行を前進させるために、フィンテックが普及すべき理由
現代日本の商慣行の課題や、そうした中でも動き始めている新しいテクノロジーを活用した効率化について、フィンテックという視点からざっくばらんにお話いただいています。フィンテックに興味のある人にとっては、新たな気づきや発見が含まれていることでしょう。
取材にご協力頂いた方
京都大学 公共政策大学院 教授
岩下 直行(いわした なおゆき)
慶應義塾大学で経済学を学び、1984年に日銀入行後は、調査統計局や企画局でエコノミストとして勤務。1994年に日銀・金融研究所に異動してからは、暗号技術、電子マネー、生体認証技術など、情報技術革新と金融の関りにかかる研究を15年間続ける。同研究所内でこの分野の研究をより深めるために、情報技術研究センターを立ち上げ、その初代センター長に就任。その後、日銀下関支店長、日立製作所への出向、金融高度化センター長を経て、初代の日銀FinTechセンター長を務め、2017年、日銀を退職。現在は、京都大学公共政策大学院教授として大学院生に金融政策とFinTechを教えつつ、金融庁参与、金融審議会委員、規制改革推進会議委員を兼務している。
世界から見た日本のフィンテック事情
佐藤:岩下先生、今日はよろしくお願いいたします。
岩下教授:はい、よろしくお願いします。
佐藤:まず最初は、今回取り上げるフィンテックの概要的なお話を伺いたいと思います。フィンテックとはどういうものか?ということや、世界から見た日本のフィンテック事情について教えてください。
岩下教授:そもそもフィンテックとは何かという話について、これは論者によっていろいろな意見があると思います。割とよくあるのは、「既存の銀行業務のベンチャー企業による代替」という定義ですね。送金、貸出、いわゆるキャッシュレス決済のようなリテールペイメント決済のような、従来は銀行ビジネスが独占してきたようなサービスをベンチャー企業が担うようになるのがフィンテックだと定義をしているケースが多いと思います。
佐藤:コード決済などは、非常に身近になったフィンテックの1つですね。
岩下教授:続いて海外と日本の違いですが、フィンテックはもともとアメリカのシリコンバレーから始まったものですね。ペイパルっていう会社があるでしょう。あれが事実上フィンテックの開祖だと言われています。
あの会社はテスラ・モーターズを創業したイーロン・マスク氏などの、のちにペイパルマフィアなんていわれる人たちが作りました。そのあと彼らは巨大動画プラットフォームを作ったり、GAFAの一角の有力SNSにメジャー出資をしたりして、現代のインターネット文化を形作ったといっても良いでしょう。そういう意味では、アメリカにおけるフィンテックの存在感や、その後の銀行分野への食い込み方は非常に強いものがあったと思いますね。
佐藤:日本には、ペイパルのような大きなフィンテック企業はないのでしょうか?
岩下教授:日本でもフィンテックは話題になりましたけども、実際に大きなフィンテック企業ってあんまりないんですよ。上場してるところも皆ベンチャー扱いですし、従業員は数百人程度です。日本の場合は、銀行の業務を食い合うというか、競争してどっちが勝つか?みたいなことはせずに、上手に共存するみたいなアプローチだったんです。
ヨーロッパでは、イギリスとかルクセンブルクとか、いわゆるIT化・デジタル化が進んでる国は、フィンテックも同時に進んでる傾向があると思いますね。
そういう意味でいくと、日本の場合は金融のデジタル化もあまり進んでないし、フィンテックもあまり進んでいません。伝統的な銀行が強いから、という面もありますけれども、歴史的な経緯もありますね。
佐藤:どのような歴史の違いによって、日本と欧米のフィンテック事情は明暗を分けたのでしょうか?
岩下教授:欧米でフィンテックが存在感を持つようになったのは、リーマンショックが契機でしょう。その結果、アメリカとヨーロッパでは金融が大きく傷つきました。銀行が融資・出資をするビジネスが停滞しましたし、銀行が提供する金融サービス機能も非常に低下しました。
しかしその時に、シリコンバレーのITベンチャーは比較的元気だったわけですよ。「金融が元気ないんだったら俺たちにやらせろ!」っていう感じで、自分たちが金融を担うようになったというのが、フィンテックが隆盛を極め、人々から大きく注目されたきっかけでしょう。
佐藤:なるほど。リーマンショックで傷ついていた既存の金融システムに取って代わるような形で、元気なフィンテック企業が台頭していったんですね。
岩下教授:リーマンショックの前の2006年、2007年くらいに、アメリカでサブプライムバブルっていうのがあったんです。このサブプライムバブルに乗っかっちゃったのが、アメリカとヨーロッパの銀行だったんです。
その時の日本の金融はというと、その前のバブル崩壊でかなり傷んで、メガバンクとかを作って強化した後でした。日本はその時に懲りてるから、「羮に懲りて膾を…」じゃないですけど、トリプルAのサブプライム証券とか買わなかったわけですよ。
リーマンショックで日本の銀行や金融機関はそんなに傷つかなかったので、日本の国内ではフィンテックが出てくる余地はそんなになかった。それに比べるとアメリカとヨーロッパは金融が傷つき元気がなかったので、そこにフィンテックが入ってくる余地が大きかったと、その違いがあるんじゃないでしょうかね。
佐藤:アメリカでは、ある意味でリーマンショックのおかげでフィンテックが注目されたのに対し、日本の場合は裏を返せばバブル崩壊から立て直してきたメガバンクが未だに幅を利かせている、という感じでしょうか?
岩下教授:未だ幅を利かせていると言うとメガバンクを敵に回しちゃうような感じで微妙ですけど、日本のバブル崩壊時の金融の傷つき方は、アメリカのサブプライムバブル崩壊に比べて実ははるかに大きかったんです。戦後長らく蓄積してきた自己資本を全部出すような形でメガバンクへの再編ということになり、日本の金融界はある意味でとっても辛い思いをしたわけですね。私もその中にいましたからよく知ってます。
その時になぜ「フィンテックを推進しよう」という議論にならなかったのかというと、当時の日本ではまだデジタル化が普及しておらず、時期がずれていたというところが大きいんじゃないでしょうか。デジタルでやろうというよりは、その当時のひどい状態を立て直して「従来のも仕組みはそのままで、より強化しよう」と。お堅い商売でしたから、そこはしょうがないと思うんですよね。
佐藤:同じバブル崩壊でも、時代の違いによって金融の立て直し方も違ったんですね。
岩下教授:リーマンショックで痛んだ金融を置き換えるものは、従来型の金融ではなくて、やっぱり新しいイノベーションっていうことになりますよね。インターネットやSNSが普及した時代でもありましたし、特にスマホの普及が大きいんじゃないでしょうか。
そういう影響があったので、2010年前後の金融の立て直しとしては、デジタル技術を利用したフィンテックというものが非常に大きな意味を持ったということだと思います。
佐藤:欧米以外としては、中国のフィンテック企業は存在感が大きいと思いますが、こちらはどのようにして発展したのでしょうか?
岩下教授:中国は欧米や日本とはまた違っていて、2013年〜2014年くらいに巨大ITグループ2社のオンライン決済システムがあっという間に普及して、これによってほぼ全国民がそれで決済できる状況になりました。今はちょっと政治的な理由で落ち込んできてますが、一頃は中国の経済をほぼ支配するんじゃないかと言われたような大きな伸びを見せましたね。
佐藤:現代中国らしい急成長ぶりだったんですね。
岩下教授:日本で一経済圏を形成しつつある某大手IT企業の経営者はインタビューの中で、モバイルを当該グループのビジネスの中で使って中国の先程の二社のようになりたいということを述べていましたから、日本でもそういうことを企んでビジネス展開する動きは大きくなってきていますよね。
暗号資産はフィンテックに含まれるのか?
佐藤:本記事とは少し趣旨が変わるかも知れませんが、新しい金融の形として暗号資産があると思います。この点についても先生に伺いたいのですが、暗号資産はフィンテックとして考えてよいのでしょうか?
岩下教授:ひと頃、フィンテックと暗号資産という言葉が、交わったものとして語られることがありましたね。
このビットコインが生まれて2022年で13年くらい経っているんですけど、最初の頃は「ビットコインってすごいんだぜ」「ビットコインがすごいからそれが金融を変えるんだぜ」っていうロジックになっていました。しかし、実際に十数年間やってみて、ビットコインが金融を変えたかっていうと、金融は変わっていないんですね。
暗号資産という新しい投資分野というか投機分野を見つけて、そこに投資をしたら儲かりましたということだけであって、その中でやってることも既存の金融を代替するとか、金融サービス分野に新規参入するんじゃなくて、暗号資産をもとにした経済を全く新しく作り上げようみたいな、そういう話なんです。
世の中に必要とされてきた伝統的な金融をイノベーションしようという話とはちょっと違って、全然別のものを作ったので、私は議論をする時には暗号資産は別に取り分けて話したり、あるいは暗号資産をフィンテックに含めないようにしています。
佐藤:確かに、このまま金融が変わってしまうんじゃないかという興味と不安を持って語られた暗号資産ですが、既存の金融に取って変わりそうかというと、そうではない気がします。
岩下教授:ただ、ベネズエラとかジンバブエみたいに社会のシステムが全部崩壊したような国において、通貨も全く価値を持たなくなった時に、暗号資産だけが生き残ったみたいな、そういう国って実際にあるんですよ。
ベネズエラの人たちはみんな無一文になっちゃって、本当に可哀想なんですけど、ただそうなった時にその国の権力者がじゃあ何を使うかって言うとビットコインを使っているらしいので、何か特殊な状況においては、もしかしたらそういうものが大事だという議論はあるかもしれません。
ですが、普通の社会を、今の社会経済の構成からそんなに変えないで発展させていくっていう観点からすると、既存の銀行の部分をどうやってインターネットを利用したものに上手に置き換えていくかとか、そういうことの方が意味があると私は思っているので、そうした文脈でフィンテックの話をしたいなと思います。
個人(リテール)のフィンテックは比較的進んでいるが、課題もある
佐藤:ここからは、日本国内のフィンテック事情に注目して伺っていきたいと思います。個人の決済方法としては、コード決済などのキャッシュレスが急速に普及してきた印象を持ちますが、先生はどうお考えでしょうか?
岩下教授:コンビニなんかでも、個人がお金を払う時に、コード決済を使うのは、今では極めて当たり前になってきましたね。
他には、タクシーの運賃を払うにしても、私は今ではもっぱらアップルウォッチでSuicaを使って払っていますけれども、こうしたものが普及する前は、「タクシー乗る時には千円札を用意しておかなくちゃいけない」みたいなことを心配してたような気がするので、そういうところからすると、リテールペイメントの世界では、随分と雰囲気が変わってきたなという風に思いますね。
佐藤:個人の決済には、現金よりもキャッシュレスを使う割合が多くなっている、というようなデータを見たことがあります。
岩下教授:いわゆるキャッシュレス比率っていう数字はいろいろあって、統計の取り方には問題もありますが、経済産業省から出している数字からは、着実に伸びてきているということが言えると思います。
でもこれは、クレジットカード使うようになったっていうのが最大のエンジンなんですね。クレジットカードというのは、1970年代とか80年代とかに世界的に普及した技術ですから、あんまり新しい感じはしないですよね。
佐藤:言われてみると、ネットで物を買うことが増えてきたので、その時の決済にクレジットカードをよく使う気がします。そう考えると、古い技術が数字を押し上げている可能性もあるんですね。
岩下教授:だから、これが素晴らしい変化だっていう気はないんですが、ただ、従来の日本の取引慣行の中で、現金の占める割合が非常に高かったことに比べると、「現金でなくてもよい」という形で社会の受け止め方が変わってきたという点は評価できるのではないでしょうか。
佐藤:日本人はよく、「現金好き」といわれますよね。
岩下教授:日本人がとりわけ現金が好きっていうわけじゃなくて、世界の人たちみんな現金は好きだと思うんですよ。
ただ、現金っていうのは匿名性のある決済手段なので、盗んだ人が自分のポケットに入れても、その現金に名前が書いてあるわけじゃないので、自分のものにできちゃうんですね。そう考えると、強盗とかが頻発してるような地域で大金を持ち歩くのはやっぱり危ないので、アメリカなんかだと治安上の理由から、現金ではなくてカード決済が大きく普及したというのが現実ではないかと私は思います。
日本でも、空き巣や強盗に入られたり、オレオレ詐欺にあったりっていうことで、現金を持つリスクはない訳ではないと思います。しかしそうはいっても比較的治安の良い国ですから、多額の現金を持っている人が多いということでしょうね。
佐藤:日本では、現金を持ち歩いて現金で支払う、ということが日常的に行われていますが、治安の良さということも現金志向の理由にあるんですね。
岩下教授:そうですね。それに加えて、日本人のお金の払い方って色々ありましてね、私は京都に住んでいますが、京都には独特のお金の文化があるんです。
世の中に出回っているお札には、一旦使われたものと、それとは別に全くの新品のいわゆる「ピン札」というのがあるんですが、このピン札っていうのは、普通あまり好かれないんですよ。どうしてかというと、紙と紙がくっついてるために数え間違えちゃうリスクが高いので、銀行と日銀との取引では「ピン札ではなくて一旦使ったお札をください」っていうのが、銀行の方からお願いされることなんですね。
ですから、日銀としては「まあそう言わずピン札もちょっとは持って行ってくださいよ」とお願いするケースも多いんですが、日銀の京都支店は逆なんです。京都だけはピン札がみんな大好きなんですよ。
京都の街中で買い物して、一万円出して千円札のお釣りをもらうと、妙に新しいなっていうお札が戻ってくることが多いです。これはどうしてだと思います?これはね、ご祝儀文化なんですね。
例えば心付けや、料亭の支払い、踊りのお師匠さんへのお月謝なんかでも、無粋に古いお札を出すということはしなくて、ピン札が使われるんです。しかもこだわっているのは、番号が揃っているっていうことなんですね。世の中にあるお札をいくら集めたって番号を揃わせるわけにいかないですから、最初にピン札の束を持ってきて、そこから順番にとって行って番号を揃えるんです。
お金にこれだけの装飾をするのって、あまりないんじゃないかと思うんですね。人々がこういう文化として維持してきたことや、治安が優れていることが組み合わさって、現金が大好きな日本国民が形作られたんじゃないかと思います。
佐藤:日本人らしいお金に対する感受性という感じがしますね。そうした文化的な一面を知ると、現金も悪くないような気がしてきます。
岩下教授:しかし、そうとばかりもいっていられないんです。日本人の強い現金志向は、結果として日本の決済の効率を非常に悪くしている面もあります。
支払い時にレジの前で並ぶだけじゃなくて、ゴルフ会員権の売買や、不動産とかの巨額の取引でも、札束を積み上げて現金で決済するそうです。そういうのは、銀行に預けたりまた引き出したりと、いろんなところでコストがかかるわけですよね。
そういうことをできるだけやめて、ほとんどの日本人は一人何個も銀行口座を持っているわけだから銀行振込にするとか、一人何枚もクレジットカードを持っているわけだからカードで払えばいいとか、そんな方向に世の中を変えていきたいと思っています。
佐藤:これまでの日本のリテールペイメントで現金が重用されてきた理由には、どのようなものがあるのでしょうか?
岩下教授:クレジットカード決済などでは、1回の決済ごとに売上金額の2%〜5%の取引手数料を取るわけですが、それって販売側の負担になるんですよ。だから、小売店サイドからクレジットカード取引をする人と現金取引する人を比較すると、現金取引の方が「手数料がかからないからありがたい」と思うわけですね。
佐藤:キャッシュレス決済にかかる手数料は、お店側の負担になるんですね。それだと現金決済の方が、コストがかからず良さそうに見えます。
岩下教授:この議論が正確なようで実は不正確なのは、現金は費用が掛からないという点です。「現金をハンドリングする費用はタダ」っていうのが前提なんですけど、実際にはそうではありません。
営業時間終了後に毎日レジを締め上げするのは人件費が掛かります。店員さんが売り上げ金を抜いてないか確認して、内部者犯罪を予防するために防犯カメラをセットしたり。そういうコストって実はかかっているんですね。現金もコストはかかってるんだけど、それは明示的なコストではないんですね。それに対して、クレジットカードとかコード決済の場合は明示的なコストになる、という違いだけなんですよ。
佐藤:現金を扱うことによるコストは、実は間接的には発生しているんですね。
岩下教授:個人事業主と法人の境目ぐらいのような小さな商店とかだと、現金で支払ってくれた方が全部自分がマネージできるという部分はあるでしょう。しかし、規模が大きくなるほど現金は大変なんですね。2%〜4%ぐらいのコストは実質的には乗ってくるので、キャッシュレス決済の手数料と比べても大きく違わないのが、海外の事例からも知られています。
それに加え、いわゆるネットワーク外部性というものですけど、みんな使っていないから普及しなかったというのが、これまで日本国内でキャッシュレス決済がうまくいかなかった原因だと思うんですね。
それが2017年〜2018年に消費税の引上げに伴うキャッシュレス推進施策が導入されてから、キャッシュレスで決済すると補助金が出ますという風な政策を行ないました。最近でもマイナポイントなんてやってますが、これによってようやく動き出したわけです。
佐藤:現金決済が主流だった時代を経て、現代ではコード決済などのキャッシュレス決済が日常的に使われるようになったと思いますが、こうしてフィンテックが進むことにはどのようなメリットがあるのでしょうか?
岩下教授:エンドユーザーのキャッシュレス化が進むということは、そこに新しいビジネスのチャンスが生まれるって事なんです。
現金で決済してる限りは、相手の属性や取引履歴などはあまりわからないわけです。でも今はキャッシュレス決済手段と個人の属性が紐付いているので、何歳ぐらいの人がどういうものを好むとか、顧客の購入回数や好みの傾向など、色々なことが分析できるようになりました。
それを利用して様々なマーケティングに使うとか、顧客に対するその他追加的なサービスに使うとか、再度購入してもらうためのプロモーションに使うとか、そういうことができるようになったんですね。
佐藤:お店で買い物すると、よくそのお店のアプリや、LINEのお友達登録を勧められたりということがありますが、これはマーケティングの一環なんですね。
岩下教授:日本人にスマホが普及し始めたのが2010年代ですが、ただそのタイミングではスマホの中の情報を販売者側が知ってたかというと、知らなかったわけですよ。
そこに一生懸命アプリを入れさせて、決済のためにKYCをちゃんとしてもらって、そこにマーケティングがきっちり着くようになった。KYCされている情報とマーケティング情報が紐付くようになったのは、キャッシュレス決済の普及が大きく貢献していると思います。
佐藤:日本のキャッシュレス決済は、ビジネスと連携しながら大きく進歩してきているんですね。
岩下教授:でもまだ、特に高齢者の人にとって金融はデジタル化されていないてないし、アメリカ、ヨーロッパ、中国に比べるとリテールのフィンテックは進んでいないというのが現在の実態ではないでしょうか。
いろんな可能性があるスタート地点に、日本はようやくつけたということでしょう。
法人間取引の現状や課題と、フィンテックが提案した変化の兆し
佐藤:ここまでは個人(リテール)でのフィンテックのお話でしたが、ここからは法人間のフィンテックについて、現状や課題を伺っていきたいと思います。
岩下教授:法人間のフィンテックとなると、話はちょっと複雑になります。法人同士の取引では、基本的に掛け売り・掛け買いが原則になっています。現金決済じゃないんですね。
この月末締めの翌月10日渡しみたいなのは、法人間の決済では標準的ですよね。これをちゃんとマネージするために、各企業では経理部をおいています。どの会社も、ちょっとしたスタートアップでも、ある程度の規模になったら経理の専門家を入れないといけないみたいな、そういう不思議な慣行が日本にはありますよね。
佐藤:個人のフィンテックでは「現金からキャッシュレスへ」という流れがあったと思いますが、法人間ではそもそもまず商慣行が話題の中心になってくるんですね。
岩下教授:こうした慣行って、海外にはあまりないんですよ。もちろん「アカウンティング」っていう職務はあります。だけど、これは企業の内部の予算とか、実際に支出がどうなってるかという方が問題であって、日々の売掛金・買掛金の処理みたいな話はあまり気にしない。どうしてかと言うと、海外の取引は多くの場合「グロス決済」といって、一件一件処理するので、月末で締めないんですね。
佐藤:海外と日本では、法人間の取引の仕方も違うという点は驚きです。
岩下教授:経理マンを雇ってその人に月末締めの10日決済で決済させる慣行が定着している国と、グロス決済によって経理を銀行に投げるような取引慣行ができていた国とでは、金融の進み方違うんですね。
日本国内のアグリゲーテッドペイメント(集計された決済方法)は、BtoBの決済において普及してきました。かつて銀行で為替送金すると、平気で700円、800円もの手数料がかかりましたから、ひと月に10回の取引があっても、それの決済件数を1件に集約することは、手数料を抑えるためには合理性があったわけです。
ところが今は、フィンテックによって法人間の送金のコストは劇的に下がりました。今は1件あたり一番安くて77円ぐらいにまで下がっているので、そう考えると送金手数料自体はそれほど大きなコストにはなりませんよね。
それなら経理の専門家を雇って、月末で締めて社内調整をしてっていうよりも、その都度決済した方が合理的だし安上がりだ、という考え方も当然ありうるわけです。未決済の売掛金が大きいと連鎖倒産するリスクも高まるので、できるだけ早く決済すべきだし、そういう方向にシフトした方が日本社会全体としてもいいと思うんですよね。
佐藤:それではなぜ、現代では合理的な理由が失われつつある取引慣行が、今でも主流となっているのでしょうか?
岩下教授:フィンテックで効率化できるのは、銀行に送金するタイミングの話なので、それより手前で行われる企業間の決済は、手作業と言うか昔ながらの方針でやられていて、それが決済の合理性を阻害していると思います。
世の中がインターネットで合理化している現代ですが、残念ながら日本の法人間の取引ではインターネットバンキングってほとんど普及してないんですよ。相変わらず月末になるとアタッシュケースに通帳や伝票を詰めて経理部の職員が二人揃って銀行に行って、銀行の窓口で大量の振込の指図をする、っていう会社が随分あります。
自分の会社だけ合理化するんだったら、そんな非合理なことやめて新しくインターネットでやりましょうとできるんだけど、相手あっての取引なので、一方的には変えられないということがあるんじゃないでしょうか。
佐藤:今の日本の経理に関する慣行は、多くの企業にとっては常識であるということが、この問題の大きな要素であるということでしょうか?
岩下教授:私が日銀にいる時、大手の製造業の本社とかを訪ねていって「どういう風にやってますか?」と景気の状況とかをお伺いする仕事をしていました。
こっちは銀行ですから、銀行の相手をしてくれるのは経理部とか財務部とかの人になりますが、そういう人たちにヒアリングしている横で、昔ながらの入出金の事務であるとか、請求書とかの経費を集計して云々という話をよく聞いたんですね。日本を代表する巨大企業でも、資金決済のための請求書とか、発注書とかを未だにFAXに手書きでやってるって、本当?って感じがするんですけど、本当なんですよ。
製造現場では工場の経費を1円単位で節約して、「乾いた雑巾を更に絞る」みたいなことをやっているとよく言われますよね。だけど、経理では効率の悪い昔ながらのやり方がされているんです。
佐藤:大企業が昔ながらの経理を行なっているなら、その下に続く中小企業は自分たちだけで経理のやり方を変えるなんて、とても出来ませんよね。
岩下教授:日本の企業の中で昔ながらのスタイルを保ってる所は、経理と人事でしょうね。両方とも、その企業にとって命に関わるような大事な部署じゃないですか。だからその部分で間違えちゃいけないので、なかなか変えられないというか、手がつけにくい部分はあるのだと思います。
それに加えて、経理にはどちらかというと保守的な人が向いているといわれます。製造現場と違って経理の場合は、変な人にやらせると横領とか使い込みをしてしまうかもしれないので、あまり目端の利いたというか、イノベーションが大好きな人は経理部には配置しないんですよね。
それよりも、きっちりかっちりやって確実にお金を確保するような人材が求められます。間違って資金ショートしたら会社倒産しちゃいますからね。結果として、経理部門には保守的な人種がたまるわけですね。世の中の経理マンってだいたい保守的なので、そういう人たちに「インターネットを使ってイノベーションしましょう」って言ったって、これ通じないわけですよ。
佐藤:保守的な仕事を求められてきた経理の人たちが、仕事の仕方を自らイノベーションしていくことは難しそうですね。それでは、現代に合うような経理の仕方に見直していくような動きはないのでしょうか?
岩下教授:経理は会社のためにあるので、会社全体で考えた時にそこにどれだけの経営資源を貼り付けるのか、ということだと思います。昔ながらの経理は「やらなくちゃいけないこと」として依然多くの企業が捉えていることなんですけど、各企業でも今では随分DXが進みつつありますよね。例えば、請求書を送ったり、入金を確認したりっていう事務そのものが、オンラインで合理化されるようになってきました。
こういう事を進めていくと、
「そもそもなんで月末に締めるのか」
「なんで受注発注とは別に、月末にそれを全部アグリゲートしてもう1回決済するという取引があるんだ」
「受注発注が起こったところでそれを決済すれば、しかもそれでシームレスに取引が処理されれば、事務のミスも少なくなるし、手間もかからなくなるし、会社にとって良いことばかりじゃないか」
っていう風に、みんな気がつくようになると思うんです。そこから、経理のやり方を変えていきましょうということが多くの企業において合意できれば、経理事務の負担を減らすことができるでしょう。
佐藤:フィンテックの前に法人間の取引慣行を変えていくことで、コスト面や、経理に割いていた人事面での負担を解決することができそうですね。
岩下教授:企業の経理が変わろうという時に、銀行がそれを後押しするサービスを提供しているかという問題があって、ここにフィンテックの議論が入ってくると思うんですね。
そもそも銀行は、自分たちのお客さんである企業の経理の人たちの意向を無視はできないので、そういう人たちが引き続き従来型の経理をやりたいと言っている以上、サービスもそういうものに偏ります。
「月末に集計する既存の商習慣から徐々に手を離しませんか?」とか、「請求書・領収書みたいな事務を全部オンラインに任せませんか?」というように提案して、そのサービスがうまくできるようになれば、大いに合理化されると思うんですけども、既存の銀行が提供しているサービスというのが実はあまり使いやすいものではない、という問題があるんですよ。
佐藤:先生が先ほどおっしゃった、取引慣行が違うと金融の進み方も違うということは、こういう部分にも現れてくるのかもしれません。
岩下教授:そうですね。こうした部分を大きく破壊的に変え得るのは、日本のフィンテック企業の中の、企業間決済の部分を担うような先でしょうね。
日本では比較的有名なスタートアップ数社が企業間決済サービスなどを提供して、決済の合理化をしましょうという働きかけをやっています。彼らは銀行ではないので、最終的に資金の決済はできないんですよ。ただ、決済に繋がるような情報を連動して出しましょう、出した情報に基づいてあなたの好きな方法で決済してください、っていう話なんです。
そういうサービスを利用して、あとはその企業で自動連携すれば合理化される。例えば、手数料の安いネットバンキングみたいなものを使えば良いわけですよね。
私はよくいうんですけど、皆さんが例えばLINEメッセージを1個書くにしても、確実に相手に届かないといけないわけです。センターサーバーの中の情報を書き換えて相手に通知するのと、銀行の預金を振り替えて相手に入金するのと、システム的に考えればほぼ同じなんですね。誰かが認証して入力した情報に基づいてデータベースを書き換えて、それを別の人に通知するっていう業務は、銀行に送金依頼を出して銀行の残高を書き換えて相手に通知するのと同じことなので。
純粋に技術的に考えると、LINEを1本送るのに0円ですから、銀行の送金だって本当は0円でできるはずなんですよね。実際にこれに近いことをやっているのがネット銀行です。
佐藤:お話を伺っていると、新しいフィンテックの風が、法人間にあった既存の取引慣行の間に吹き込んできている様子が、少しずつ見えてきました。
岩下教授:これまで、資金決済に1件あたり何百円も手数料をかけていたこと自体が、実はちょっと高すぎたのかもしれません。こういう部分をもっと効率化して、経理の事務を見直しませんか?ということが、フィンテック側からの提案として出てくれば、イノベーションが起きるわけですね。
実際にそれに取り組んでいる会社もそれなりにありますが、だけど必ずしもそれがマジョリティになってるかっていうと、先ほど申し上げたように保守的な経理部門の会社はまだまだ多いです。
とりわけ、インターネットを使って金融をやるということに抵抗感を持つ人は、未だにたくさんいるんですよ。サイバー攻撃だとか情報流出だとか、そういう問題は現実的にあるので気持ちは分かります。けれども、現代では企業の中で広くインターネットが使われているので、インターネットバンキングを使おうが、従来型の預金振替の手続きでやろうが、サイバー攻撃のリスクは一緒なんですけどね。
内部者犯罪とかを含めて考えると、従来からある経理の仕方の方が圧倒的に安全だとはいえません。そうすると、トータルでコストが安い方法で、かつDXに対応したシームレスな取引という方向に移行していくのは、これは企業にとって自然な姿です。それが現代の社会では「フィンテックの普及」というところになると思うので、そういう意味ではまだこれから日本の国内でフィンテックを進める価値はあると思います。
日本の商慣行を前進させるために、フィンテックが普及すべき理由
佐藤:ここまで、法人間の取引にある商習慣や慣行が持つ課題と、それに対してフィンテックが関わってきて少しずつ変化がもたらされてきている、というお話を伺ってきました。
例えばスタートアップに関しては、スタートアップ同士の取引では最初から経理担当を雇わないでフィンテックを活用するとかの解決方法はあると思いますが、大手企業に関しては旧来の経理の仕方や商習慣はなかなか変わっていかないイメージがあります。こうした大企業に変化を促すような要素は今後あるのでしょうか?
岩下教授:最近起こった大きなこととしては、各地の手形交換所が11月2日に廃止になりましたね。日本全国に100箇所以上あった手形交換所が続々と廃止になって、東京に集約されることになりました。
金融の教科書を見るとだいたい最初に「手形・小切手」みたいなことは書いてあるんですけども、皆さん現物見たことないでしょう?普通の若い人は、銀行に口座入金してもらうのが当たり前のことなわけで、手形とか小切手なんて見たことないよって人たちが多いと思いますが、こういう人たちが「手形」という言葉を急に意識するのは大手企業と取引をした時なんですね。大手企業と取引開始すると、急に「手形のサイト(入金までの期間)は3ヶ月です」なんて言われるわけです。
佐藤:大企業の商慣行は、それを相手にするスタートアップ企業にとってはビジネスを進める上での壁になりそうですね。
岩下教授:大手企業は、自分が払うお金は3ヶ月後に現金になればいいって思っているので、これが一種の既得権益みたいになっちゃってるわけですね。私はこれはとってもまずいことだと思っていて、手形と小切手なんていうものは一刻も早くこの世から追放した方が良いと思っています。日本全体で手形交換所という所で取引をしてきたこと自体もすごく非効率な話だし、これだけ電子の世の中になったのに未だに紙なんですか?っていう問題もあります。
手形そのものは、あと3、4年したら完全になくなると思いますけども、大手企業の経理部が未だに「手形決済のサイトは何ヶ月なので」みたいな話をして、そのまま売掛金に対する入金を一定期間伸ばしちゃうことを取引先に押し付けている訳です。これは一歩間違うと、独禁法違反とか不公正な取引になりかねない話なんですが、「まあそれは慣行としてみんながやってるんでいいや」っていう風になってる。
我々はもう電子決済ネイティブの世代なんだから、「そんなこと自体ありえないでしょ?3ヶ月先に入金してほしいって、3ヶ月分貸して欲しいわけ?銀行に行けばいくらでも貸してくれますよ?だから現金入金して下さいよ」といえばいいんだと思うんです。
佐藤:資金力がある大企業は、3ヶ月先の入金でも大丈夫なのかもしれませんが、中小企業やスタートアップにとっては死活問題になりかねませんね。
岩下教授:大企業ってその辺がちょっと傲慢な部分があってですね、「大量に買ってやるぞ、その代わり入金は3ヶ月後な」みたいなのが普通なんですね。
そうすると、ベンチャービジネスの人たちは「わかりました」って言って大量に作って納品するでしょ。納品するための材料費は現金で払っている。売上の入金が3ヶ月後だと、その間に資金ショートしちゃうんですよ。みんなそれで苦労したって言いますよね。こういう不思議な商慣行があるので、ビジネスを拡大すれば拡大するほど、手元のキャッシュがどんどんなくなって黒字倒産が起きやすくなるんですね。
佐藤:ベンチャービジネスに伸びてきてもらって、日本の経済を元気にして欲しいというところに、商慣行がその行く手をさえぎってしまうのは、大きな問題に思えます。
岩下教授:こうした慣行自体を変えた方が良いのはもちろんですが、必要なら運転資金を別途調達することは今時十分可能で、そのためのフィンテックももちろんあります。ただお金を貸す方のフィンテックは基本的に日本ではあまり普及してなくて、日本には銀行がたくさんありますから、そちらの方がより安心できる貸し手だと思いますけどね。
帳簿と現預金が出来るだけリアルタイムで連動していた方が、経営としては健全だと思いますし、そこに3ヶ月送らせる合理的理由はないんですね。そこに古いヘンテコな慣行が入っている結果、いろんなビジネスに参入がしにくい形になってるっていうことは、あまり良くないことだと思います。
大企業は入金3ヶ月とやるのは不公正な取引ですし、銀行業界が挙げて「手形はもうやめましょう」といっている状況でもあるので、これから社会の慣行は大きく変わっていくと思います。
佐藤:手形の廃止についてここまで伺ってきましたが、他にも変化の兆しのようなものはあるのでしょうか?
岩下教授:今の慣行を変える一つのエンジンになるのは、インボイス制度の導入だと思います。2023年の10月から、法人間の取引ではインボイス(適格請求書)の交付が義務付けられるので、スタートアップの人たちも非常に苦労されていると聞いています。この制度を普通に導入したら経理部門が紙の洪水になりますからね。でも、これがきっかけとなって、様々な電子取引が利用されるようになり、経理事務自体が効率化していくという道も考えられます。そうなれば、古い慣習も改まると思うんですよ。本来スタートアップの人たちは本業に一生懸命頑張って頂きたいので、経理や資金繰りで苦労するっていうのはやっぱり本末転倒ですよね。
スタートアップの人たちも参入しやすいようなビジネスの慣行に変わっていく、スタートアップに対してフレンドリーな社会を作って行くということが、これからより活力のある日本経済のキーを作って行こうという観点から必要なので、過剰に資金負担をすることがないような形に変えていくべきだと思いますね。
佐藤:変化の最中に私たちはいるんですね。
岩下教授:そうですね。そのプロセスには我々はいるので、その時にフィンテックというテクノロジーと、そして社会制度などの中で慣行を変えていくという、この両方が必要ですね。
テクノロジーだけでは変わりません。テクノロジーが入ってきたので、それを利用して慣行が変わっていくプロセスで、よりビジネスがしやすくなる方向にこれから移っていくんだと思います。そのためにもテクノロジーを十分に活用していただくということが必要ですが、それが日本でフィンテックが普及すべきだと私が考えてる理由の一つですね。
まとめ
ここまでの岩下教授のお話はいかがでしたでしょうか。
私はフィンテックという“新しくてすごいテクノロジー”が、日本の社会や金融を変えていくのだと思っていました。実際にリテールの面ではフィンテックの普及によって暮らしはより便利になりましたが、法人間の取引では、フィンテックの力だけで今ある形を変えていくというよりも、既存の習慣や仕組みを変えていく中でフィンテックを活用すべきというお話でしたね。
フィンテックの普及はそうした商習慣の変化を後押しする存在にもなるので、今後のさらなるフィンテック技術やフィンテックビジネスの発展が期待されるところでしょう。
(対談/佐藤 直人)