ヴァイオリニスト 東京大学特任教授
近藤薫氏
「知性」偏重の脆さ。本当の多様性と自律性を知るには、芸術で「感性」を育むことが必要

現代社会は「Human-Centered」の西洋科学・思想を基に構築されています。そうした中で、多くの現代人は効率良く生きることを求め、画一的な価値観のもとで人間としての自律を失っているかも知れません。

こうした「知性」偏重社会が持つ危うさと、知性と対をなす「感性」の大切さについて、近藤薫先生にお話を伺いました。近藤先生は東京大学先端科学技術センター 先端アートデザイン分野で、芸術の社会実装について研究及び活動をされていますが、東京フィルハーモニー交響楽団のコンサートマスターであり、一線で活躍されている芸術家でもあります。

芸術が何のためにあるか、なぜ必要なのかは、仏教の教えの真髄のように言語化が難しい事柄ですが、今回の取材では様々なエピソードを交えながらそれを教えていただきました。

先端アートデザイン分野の重要な考え方である「Nature-Centered」とは何か。そして芸術が人の感性を豊かにし、そうして開いた感性は、本当の多様性とは何か、命の意味とは何かなど、論理的思考では捉えきれない、しかし非常に大切なことを知るためにはなくてはならないものだと言うお話です。

現在の社会のあり方や停滞感に問題意識を持つ人や、もちろん音楽や芸術が好きな人にとっても興味深いテーマだと思うので、ぜひ最後まで読んでみてください。

取材にご協力頂いた方

東京フィルハーモニー交響楽団 コンサートマスター
東京大学 先端科学技術研究センター 特任教授

近藤 薫(こんどう かおる)

ヴァイオリニスト。東京芸術大学をアカンサス賞を受賞して卒業後、同大学院修士課程修了。在学中から国内外の様々なオーケストラにゲスト・コンサートマスターとして出演。現在、東京フィルハーモニー交響楽団および Future Orchestra Classics コンサートマスター、バンクーバー・メトロポリタン・オーケストラ首席客演コンサートマスター、リヴァラン弦楽四重奏団主宰。東京大学先端科学技術研究センター先端アートデザイン分野特任教授。東京音楽大学、洗足音楽大学非常勤講師。東京フィル創設時のコンサートマスター近藤富雄は祖父で、三世代に渡ってヴァイオリニストという音楽家の家系に育つ。愛知県出身。

先端アートデザイン分野と、中心となる考え方「Nature-Centered」とは何か

佐藤:近藤先生、今日はよろしくお願いいたします。

近藤先生:よろしくお願いします。

佐藤:まず最初に、「先端アートデザイン分野」とはどのようなものか、そして何を目的にしているかを簡単に伺えたらと思います。

近藤先生:順を追って1つ1つお話していきたいのですが、まずは先端アートデザイン分野とは何かという話からしましょう。先端アートデザイン分野は、2021年1月に東京大学先端科学技術研究センター(以後、東大先端研)に設置されました。そもそも先端研は30年くらい前から東大にある研究所で、いろいろな分野を含む研究特区なのですが、学際研究や産学連携の走りなんですね。分野と分野の間に眠っている未知の知見を掘り起こしたり、または企業さんなどにも入ってもらって研究によって得たものをスピーディに社会実装させていこう、ということを昔からやってきた所です。

先端アートデザイン分野は、当時先端研の所長をされていた神崎亮平先生と立ち上げました。生命知能研究の第一線に立つ科学者です。科学は認知能力を使いますよね。要するに言語を使ったりとか、論理的に物事を決めたりとか。近代科学、自然科学がどんどん発展していく文脈の中で西洋は近代化していきましたが、ただそのやり方に限界が来ているんじゃないかということを神崎先生は感じていて、「何かを変えなくてはいけない、そこに何が足りないか?」という話になったんです。そして、それには芸術が足りないんだという考えから先端アートデザイン分野の設置に動き出すんですね。

佐藤:西洋科学によって発展してきた現代社会が持つ行き詰まりを、芸術が解きほぐせる可能性があり、その芸術を社会実装させることを目的として先端アートデザイン分野は設置されたんですね。

近藤先生:先端アートデザイン分野を設置するときに議論を重ね、目的としたことを一言で言うと「Nature-Centeredを実現しよう」ということなんです。「Nature-Centered」は「Human-Centered」と対をなす、我々が作った言葉です。

Human-Centeredの代表的なものである自然科学は、自然の一部を切り取って研究するんですよね。つまり科学的であるということは、物事を分けて考えていくということとイコールなんです。だから分野も細かく分かれている。「分かる」と言うことは「分ける」ことであり、差分を見て研究していくというのが西洋科学の基本的な考え方なんです。こうした科学技術・テクノロジーによって生み出されたものは、人間をとても豊かに幸福にしてきました。特に医療の発展は大きかったと思います。

でも本来、自然というものは全て「関係性」で出来ています。「分けて考える」ことを基本とする科学技術によって構築された社会は、点の集積のような性質を持っていくわけですね。それぞれの分野でそれぞれの最適解を出していく、その最適解の集積で社会を作っていくというような方向性です。

最適解を出し続けてきた西洋科学というものは、どちらかと言うと自然をコントロールする方向に発展してきました。テクノロジーはある程度までは人間を幸せにしてくれましたが、同時に問題も生み出してきちゃったんですよね。それが顕在化してきたのが現代だと思うんです。例えば、貧富の差の問題であるとか、環境破壊であるとか。 しかもそういうものって、問題解決が非常に難しいですよね。

また近代化と同時に、資本主義によって経済も大きく発展してきてーーーこれらは社会の中で強固に実装されているわけですがーーーこうしたものを突き詰めると、いかに効率よくできるかということが一番重要な視点になってくるんですね。すると、例えば個人の感想みたいなものはあまり必要なくなってくる。 後ほどまたお話しますが、これは「自律性の欠如」という大きな問題にもつながってきます。

佐藤:私たちは日々科学技術の恩恵を受けながら生活していますが、同時に大きな問題を抱えていることも理解できます。しかもこれは、Human-Centeredの代表である西洋科学によって作られてきた社会の持つ、構造的な問題と言えるんですね。

近藤先生:こうした問題の本質は実は全部絡んでいて、これには認知能力というものが関わってきます。認知能力とは何かと言うと、人間が持つ脳の色々な部位のうち、情動や生命維持を司る脳幹や小脳、海馬などの比較的原始的な脳の周りに大脳皮質があって、その大脳を使って論理的にものを考える能力のことです。あるいは「知性」とも言えるでしょう。自分で考えて自分で意識できる領域ですね。

一方で自分で意識できない領域もあります。「知性」に対して「感性」の世界ですが、こちらは無意識の領域です。実は芸術とは大体こういうところを使って表出させていると思うんです。Human-Centeredの自然科学は最適解を求めるものでしたが、一方で芸術というのは解のないものなんですね。答えはない。目的もないです。最適解がないだけではなく、答えすら求めない。または、問いであるとも言えるかもしれません。 

佐藤:認知能力と知性によって生まれた社会にある脆弱性の解決には、それと対をなす感性からのアプローチも必要になってくる、と言うことでしょうか。

近藤先生:そうですね。今まではHuman-Centeredで、つまり人間が全ての中心で、認知能力によって生み出したサイエンステクノロジーを使って全てをコントロールしようという方向性でやってきましたが、人間も自然の一部だという明らかな事実に一度立ち返る必要があるのではないか。それがNature-Centeredの基本的な考え方です。そうした概念的なものを社会に落とし込むためには、感性で感性を刺激する芸術がすごく役に立つのではと考えています。

NATURE-CENTERED CONCERTは、感性を高め人と自然を結びつける

佐藤:ここまで、現代社会にある問題と、それに対するアプローチとして先端アートデザイン分野が設置された経緯、さらに中心となる考え方である「Nature-Centered」について伺ってきました。概念的な、そして漠然とした話だ、と感じている読者もいると思いますが、ここからは少し具体的に、先端アートデザイン分野の活動の1つである「NATURE-CENTERED CONCERT」について伺いながら理解を深めていきたいと思います。

近藤先生:NATURE-CENTERED CONCERTは「森のコンサート」とも呼んでいて、端的に言うとコンサートホールではない、例えば自然の中などで行っているコンサートのことです。NATURE-CENTERED CONCERTには大きく3つの目的があります。

  1. 人と自然を結びつけること
  2. 多様性を知ること
  3. 自律性を高めること

まずは「①人と自然を結びつけること」からお話したいと思います。NATURE-CENTERED CONCERTは実は先端アートデザインができる前から私がやっていたことで、私が大学4年生の時に自然の中で演奏する機会があったことがきっかけです。

それは指揮者の小澤征爾先生と、ロシア人チェリストのロストロポーヴィチ先生が行ったキャラバンコンサートでした。ロストロポーヴィチ先生の方が小澤先生より少し年上ですが、お二人の出会いは冷戦時代、アメリカのオーケストラの音楽監督とソビエトの偉大なチェリストとしてでした。しかしお二人は音楽によって結ばれた、魂の繋がった兄弟のような関係性でした。キャラバンコンサートは、コンサートホールに来るのも大変な人たちのために、こちらから行ってコンサートやりましょうというもので、マスコミは全部シャットアウトで、口コミだけで広めました。ロストロポーヴィチ先生の思いつきだったのですが、小澤先生は最初は何でそんなことをやりたいのか、と尋ねたそうです。ロストロポーヴィチ先生は「いやセイジ、これをやったら音楽家になった意味と、音楽家になって良かったって絶対思うから」ということで、20人くらいのミニオーケストラを引き連れて始められたんです。

なかなか過酷で、夏の7月の末から始まって8月10日位まで、十日間ほどの間に十何回か本番があるんです。人間より鶏とか牛の方がずっと多いような、今でいう限界集落みたいなところでしてね。最初は岩手県の浄法寺というところから始めました。廃校になった小学校の体育館とか地域の人が大事にしているお寺とか介護施設みたいな、そういういわゆるコンサートホールじゃないところで演奏して。とにかく本当に大切なものをたくさん教えていただいたのですが、その時にすごく不思議な体験をたくさんしました。

スタートして三日目くらいからだんだん不思議なことが起き始めたのですが、例えば、曲調が暗い場面から少し希望が見えて明るくなるという時に、それまで曇天だった所に光がさーっと射して、「天使の梯子」ってあるじゃないですか、そういうものが出てきたりだとか。

また別の日にお寺で演奏していたときは、蝉がすごい勢いでギャンギャン鳴いていました。ロストロポーヴィチ先生は、ピアノやピアニッシモ、要するに弱い音をとっても大切にする方で、リハーサルの時にも凄くこだわってやっていたんです。でもこれだとピアノやピアニッシモは絶対に聞こえないっていう状況でした。ところが、本番の演奏でその場面にさしかかったらピタッと蝉が鳴き止むんです。こういうことがたくさん起こっていたんです。最初は私の勘違いかなと思っていたのですが、楽屋に戻るとオーケストラのメンバーが「こんなことあったよね、あんなことあったよね」ってみんな気付いてるんですよね。そこで、やっぱり私の勘違いじゃないんだと。演奏会では毎回そういうことがあって、私たちは「また今日も奇跡があったね」と言うようになりました。

佐藤:自然と音楽がまるで関係し合っているかのような、不思議な体験ですね。

近藤先生:それが20年くらい前のことで、私はずっとその奇跡が不思議でした。こういうことができる芸術家、本物の音楽家がいるんだということにすごく衝撃を受けて、私は一生かけてここを目指すべきなのだとその時に感じたのです。そして、キャラバンコンサートを自分でも続けるために、東京フィルに入った後に仲間と一緒に「音楽のちから」というアンサンブル・チームを組みました。小学校に行ったり病院に行ったり、そのような活動をするようになりました。

外で弾くとそういう不思議なことが今でも起こるんです。2020年に北海道の白老町に「ウポポイ」という国立アイヌ民族博物館ができましたが、そこにポロトの森とポロト湖という美しい自然があり、そこで弾く機会がありました。その時に童謡の「夕焼け小焼け」を弾いたんです。

少し余談になりますが、日本の作曲家の三善晃先生という方がいらっしゃるのですが、先生はよくこの『夕焼け小焼け』をご自分の曲に取り入れていらっしゃいました。

夕焼け 小焼けで 日が暮れて

山のお寺の 鐘が鳴る

おててつないで みなかえろう

からすと いっしょに かえりましょう

日が沈む夕方というのは、黄昏時、つまり人の死を意味していて、お寺の鐘が鳴るというのもどこか宗教的ですよね。「おててつないでみなかえろう、からすと一緒にかえりましょう」と続きますが、からすとは三善晃先生に言わせるとB29のことなんだそうです。先生から直接お話しを伺ったのですが、子供の頃、遊んだ帰り道に掃討射撃に遭遇してしまい、隣で一緒に逃げ走っていたご友人が撃たれ亡くなったそうです。それが先生の原体験だそうです。けれども、敵も味方もなく、手を繋いで一緒にかえろう、と。でもどこにかえるかは分からない。天国や極楽浄土でしょうか。そんな曲です。

その「夕焼け小焼け」をポロト湖で夕方に弾いたんですね。そうしたら、弾き終わる瞬間にカラスがカーカー鳴いたんですよ。それでみんな大盛り上がりになって、ほら奇跡だ奇跡だと言っていたんです。

でもよく考えると、夕方の山ってカラスは大体鳴くんですよ。だからカラスが鳴く確率ってそんなに低くないと思うんです。ただ人間って、カラスの鳴き声に気づかないんですよね。なぜかと言うと、それは必要な情報じゃないからです。無意識の領域って、私たちが考えているよりすごくたくさんの情報を感じ取っているんですよね。それを感性と言うんです。それを情報として認知能にあげるかどうかというのは、また別の話なんですよ。

今まで起きていた奇跡の答え、と言うと語弊がありますが、普段から起きている自然の中のささやかな出来事に、音楽を通して気付けた、と言うことなのかも知れません。

近藤先生:私たちは普段認知能を使って、さまざまなことを認識してコントロールして活動していますが、本来ならば重要であるはずの情報なのに、認識の閾値を超えてきていない可能性ってすごく高いんです。感じているけど、気づいていない状態です。音楽とかそういうものによって、今まで必要ないとしていたいろいろなものが聞こえてくる。要するに、感性が研ぎ澄まされていく、開いていくのではと私は考えています。

佐藤:認知能は実用的な情報を選択することが得意だと思いますが、そこからこぼれ落ちるものの中に大切なことも含まれていて、それに気付くのに感性や芸術が関係してくるんですね。

近藤先生:現代社会はものすごくうるさいので、みんなきっと耳が麻痺していると思います。しかも自然の声はとても微かなんです。自然を知る、自然と人を結びつけるとは、感性の世界にある自然と、ほぼほぼ知性で生きている現代社会の人間たちが一緒になっていくということなのですが、私のようにクラシック音楽家が扱う生の音、つまり電気を使わない音は耳に心地よく、感性を開くことに役立つのではないか、自然と人の橋渡しをする力があるのではないかと思っています。そして、世界は美しく、奇跡みたいなことがたくさん起きていることに気づくのです。

本当の多様性を理解するためには、知性だけでは限界がある

佐藤:音楽などの芸術を通して人の感性が開き、それによって普段気づかないようなことに気づく。そこには奇跡にも見えるような美しいことや、現代人が失いつつあって必要としている大切なものも含まれていると言うお話を伺ってきました。芸術が感性を刺激することは、認知能力では捉えきれない人間の無意識の部分を充実させることにも繋がるのかなと思いますが、こうしたことはNATURE-CENTERED CONCERTの目的である「多様性を知ること」や「自律性を高めること」にもつながってくるのでしょうか?

近藤先生:自然界は本当の多様性でできていますが、人間が言っている多様性というのは、結局「こういう意見があるよね」というのを出し合っているだけで、共生できているかと言うと、なかなかうまくいっていないように見えます。でもこれって難しいことなんです。多分、認知能力を使っていたら無理だと思います。だって両者とも言っていることは正しいですから。

佐藤:先ほどの「夕焼け小焼け」の歌でありませんが、意見の異なる対立するもの同士がわかり合うのは、ある種の理想ですがとても難しいことですよね。

近藤先生:でも自然界を見ると、ちゃんとバランスをとっているんですよね。そういうところに、今後人類が目指すべき未来を考えるときに、何か秘密があるのではないかと思っています。自然が持つ本当の多様性の意味を知るのではなく、感じる。感じることって結構重要なんです。人は自分が考えて動いていると思っているじゃないですか。でも、そもそもなぜ自分がそう考えたか?という思考の根っこの部分って認識できないんです。例えば、AとBを自分の意思で選ぼうとなった時、そもそもその選択肢が出てきた理由には無意識の領域がすごく影響していて、認知能力でそれを知ることはできません。

今私が言ってることは凄く概念的でふわふわしたもののように聞こえるかもしれませんが、脳神経科学などでは感性や感覚器に、つまり中枢神経や末梢神経に働きかけて、それを医療として使うというような研究もされていますし、そういう無意識領域に働きかけることが、今後ますます重要になると思います。

佐藤:自然は本当の多様性を人間に教えてくれる存在だと思いますが、そこでは感性によってバランスがとられている。人間が本当の多様性を知るにもやはり、感性や無意識の部分が重要であることに気付く必要があるんですね。

近藤先生:多様性を失うことは、我々の自律性も失うことにつながり、結果的に社会は停滞してしまうという危険性もはらんでいます。例えば今、「民主主義は本当に機能しているのか?」というような議論がありますよね。そのような議論が起きる理由に現代社会が持つ停滞感がありますが、社会が停滞していく原因の一つには、社会の構成員である我々の思考が止まってしまっていることがあると思うんです。

これを言うと反論する方もいると思いますがコストパフォーマンスとかタイムパフォーマンスとか、「いかに効率的に生きるか?」ということをみんなが考えていて、現代の価値観はほとんどがそこに集約してしまっているように感じられます。そうでないものを社会は受け入れられない。

佐藤:社会の中で価値観が多様ではなく、むしろ反対に画一的になっているのかも知れません。

近藤先生:これは芸術活動をやっているとすごくよく分かるのですが、例えば企業にスポンサードしていただいて何かをする場合、「それをやったらどういう効果がいつ上がり、どんなメリットがあるのか?」という話に必ずなります。芸術ってそもそも解を求めていないものですが、人間に何かしらの影響があるんですよ。その影響は認識できないことの方が多いと思いますが。

効率性と言うところに考え方が集約されてしまって、その結果我々は自分で考えるのをやめてしまう。これは、自分の思考を自分以外の何かに委ねているとも言えると思います。 自律していないとはそういうことなんですね。今の日本の停滞感みたいなものとか、または「日本ではイノベーションが起こりづらい」と言われることであるとか、若者たちがほぼほぼ絶望しかけているみたいな状況と言うのは、すべての活動がシステムにはまってしまっていて、自律しているものが圧倒的に少ないから。個人だけではなく、社会全体が自律していない。

佐藤:社会が多様性を失い、効率性と言う価値観に集約されている。それは人間の自律性を損なわせ思考停止につながり、結果的に社会は停滞し衰退へと向かう。こうした問題は全て根っこが繋がっているんですね。

近藤先生:まずは個人個人が自律するということが必要です。現実は、社会に出ると個人の感想なんて、効率性の前では「どうでもいい」とされてしまいますよね。唯一無二のあなたらしく、みたいに育てられた子たちが、社会に出た途端に個性を出すなと言われる。個人が許されない社会にやっぱり絶望するんですよね。でも自然界に行くと全てが個性的で、全てが自律していて、それでなおかつ共生できている。こんなふうに本当は人間も自律しているべきなんです。

自然の中で音楽を聴くと、勝手に自由になる

佐藤:効果や効率を求める現代人の悪い癖かもしれませんが、NATURE-CENTERED CONCERTが聴衆にもたらした変化などがあれば教えていただけますか?

近藤先生:クラシックのコンサート会場に行くと、椅子がみんな同じ方向を向いて並んでいて、咳すると睨まれるとか、違ったところで拍手をすると睨まれるとか、あれはあれでひとつの文化ですけれど、よくわからない決まり事がいろいろありますよね。

でもNATURE-CENTERED CONCERTに実際に来ていただくと良くわかると思うのですが、自然のなかで聴いている人たちは勝手に自由になっていくんですよね。勝手に寝ころがったりとか、ぶらぶら歩きながら聴いたりだとか。でも全然気にならないんです。自然の中での演奏会はむしろ自由であることの方がすごく自然で、そういうところでは、人は放っておいても自律していくんです。

やっぱり価値観を外から与えられて同じ方向を向かせられると人間はどんどん窮屈になっていくし、それが強く先鋭化されていくほど思考は止まっていくと思うんです。そういうところから解放された時に、本当の自律が見えてくるのだと思います。

佐藤:そもそも芸術は、答えや直接的な効果を求めるものではありませんが、自然の中で演奏される音楽に身を置くと、知性だけでは見えてこない多様性や自律性を、感性によって知ることができるんですね。

近藤先生:他にも例えば、小学校で音楽教室みたいなことをやると、子供たちは「黙って聴きなさい、静かに聴きなさい」と教え込まれてますよね。または、ちょっと楽しくて体を動かしていると先生が止めに入ったりとか。

でも私は、許されるのであれば子どもたちを一方向に並べて聴かせません。「好きなところで聴いて良いよ」と言います。少なくとも囲んでもらうようにしています。でも先生たちは、子供たちに好きにさせたら動物園になっちゃうぞ、という恐怖があるので戸惑われます。実際、子どもたちは寝転ぶだけでテンションが上がるし、一度テンションが上がってしまったら、静かに!と言っても静まりません。ところが、音楽を奏で始めるとちゃんと静かになるんですよね。みんな聴きたいんです。ですから大人は余計な心配はしない方がいい。彼らはちゃんと聴いているし聴き方が分かっている。

そういう子たちが書いた感想文を読むと、全員違うことを書くんですよね。反対に、並べて聴かせると全員同じことを書きますね。「素晴らしかったです」とか「バイオリンとチェロが調和していて〜」とか、いわゆる大人が喜びそうなことを書きます。でも自由に聴いてもらった後の感想文はみんなものすごく個性的で、めちゃくちゃ面白いです。

佐藤:それはとても象徴的なお話ですね。画一的な価値観のもとでは多様な発想は生まれない。でもそうした制限を取り払う中で聴く音楽は子供たちの感性を解きほぐして、自律して多様な発想を生んだんですね。先ほど先生のお話にあった、「日本ではイノベーションが起こりづらい」と言う問題を考える上でも重要な要素だと思います。

近藤先生:私たちは思ったよりも認知能力に依存して生きているので、「本当の自由とは何か」「無意識の領域が何を求めているのか」という心の声のようなものをあまり聴かないまま過ごしているのではないかなと感じます。そういう認知能力の束縛から解放してくれるのが、NATURE-CENTERED CONCERTの目的です。だからそういう意味では、ウェルビーイングや福祉のようなこととも関わるかもしれないですね。

芸術はずっとずっと人類の傍にいてくれていたはずなんです。芸術をもう一度捉え直して、社会がどうやって扱っていくかということを我々は考えていかなくてはならないと思っています。

「命のコンサート」を通して知る、人間性を失いつつあるかも知れない社会

佐藤:最後は、現在の先端アートデザイン分野や先生のご活動、そして将来の展望について伺いたいと思います。

近藤先生:我々の大きな活動の1つに、先端アートデザイン分野が中心となって行っている「高野山会議」というものがあります。これは、科学者、芸術家、お坊さんなどが集まって、本当の意味でインクルーシブな、宗教とは関係のない「学びの場」というものを作れないか、という発想から始まり、金剛峯寺の当時宗務総長だった添田隆昭さんとお話を重ねご理解をいただいて開催しています。

高野山金剛峯寺は真言宗の総本山ですが、開祖である空海は非常にインクルーシブな考え方の持ち主なんですね。例えば曼荼羅は仏教の教えの真髄を絵で表したものですが、それを見ると世界のあらゆるものが描かれています。真ん中に大日如来がいて、虫、動物、草、花、石、もちろん人間も描いてあるし死体も描かれています。そうした全てに仏性が宿っていて、宇宙の全てが一つなんだと言うような概念があります。そうした教えが1200年間変わらずに受け継がれていて、本当にスケールが大きく、サスティナブルなんですね。

佐藤:先端アートデザイン分野がある意味で理想とするような場所が、高野山金剛峯寺だったと言うことでしょうか。

近藤先生:その通りです。曼荼羅には智慧の「金剛曼荼羅」と慈悲の「大悲胎蔵正曼荼羅」のふたつがあって、一対になっているんです。私は、金剛曼荼羅は知性の世界、胎蔵曼荼羅は感性の世界を表しているのではと思っています。やっぱり両方ないとダメなんですね。

社会にある諸問題の根っこは、実は全部繋がっているのではないかと思います。今は知性に寄り過ぎていて、目で見たり考えて判断できたりするものに囚われ過ぎています。バランスを取るために感性をもっと働かさなくちゃいけない。

佐藤:知性と感性のバランスを取る大切さは、1000年以上前から知られていて、伝えられてきていたことなんですね。

近藤先生:伝えていくことは非常に重要です。大学での活動以外に「一般社団法人 芸術環境共創基盤」を立ち上げました。教育という言葉は個人的にはあまり好きではありませんが、次世代に繋げていこうという趣旨のものです。

「芸術家は社会から背を向けているんじゃないか」「本当に社会と積極的に関わろうとしてきたか」という反省から、コンサートなどの文化活動だけではなくて、社会の諸問題やそれにある根っこ、それに対して芸術家は何をすべきかとか、そもそも芸術は何なのかとか、そういうことを学べる場を提供したいなと思って始めたものです。

佐藤: 芸術環境共創基盤でのご活動について簡単に教えていただけますか?

近藤先生:芸術環境共創基盤の活動は大きく3つあり、1つは繋がるコンサート、いわゆる産学連携を推進するような活動です。

もう1つは森のコンサート(NATURE-CENTERED CONCERT)です。外界から遮断されたコンサートホールで、お客さんが皆同じ方向を向いて座って、その反対側に演奏者がいるという、ある種一元論を体現したような通常のコンサートと一線を画すコンサートです。すると「ああ、音楽とはこういうものなのかもしれない」と演奏者が気づいていきます。森のコンサートはもちろんオーディエンスのためでもありますが、森の中で演奏者もオーディエンスもみんな自由になっていきます。

そして3つ目に、私が最も大切にしている「命のコンサート」と呼んでいるものがあります。

佐藤: 「命のコンサート」とはどう言ったものでしょうか?

近藤先生:命のコンサートは、つまり命を知るコンサートです。「音楽のちから」でやってきたことなのですが、重症心身障がい児病院で開催してきたコンサートのことです。

車椅子で集まる子、ベットごと参加する子、呼吸や食事にたくさんの科学的な助けを必要とする子、さまざまな思いで従事する医師や看護師さん、エッセンシャルワーカーさんたち、必死に我が子の命の意味を見つめる親御さんたち。命そのものに直面している場所です。子どもたちだけでなく、そこにいるすべての人、演奏者も含めたすべての人に向けたこのコンサートでは、私たちは必ずハッピーバースデー変奏曲を演奏します。ハッピーバースデーのメロディを変奏しながら、つまりヴァリエーションで形を変えながら紡いでいって、最後にまたメロディが戻ってきてみんなで歌う、という曲です。立場や体つき、生き方、あらゆることが違っても、みんな同じ命で、それは繋がっているし、何一つ欠けてはならないものなんだというメッセージをこめて、コンサートの最後に必ず演奏してきました。

命のコンサートでは、自分がやっている音楽の重さというか、音楽の持つ力、音楽に取り組む意味と覚悟を教わります。それ以上に、生きるって何だ、命って何だという、とてもではないけれど言葉では説明できない、でもすごく大切なことを学ばせてもらいました。その病院の全てが私の先生なんです。

佐藤:日々生きることや命と向き合っている、障がいを持った子供たちやそのご家族、そして医療に携わる人たちの中での演奏会は、とても意義深いものだと感じます。

近藤先生:10年ほど続けていますが、再会できる子もいれば、夏を乗り切れなかった、春を迎えられなかったという報せと共にお別れしなくてはならなかった子もいます。重い障がいを持つ彼らは、そんなに長く生きられないことが多い。でも、とても印象的な目をしています。そして、うまく説明できませんが、とても力強いエネルギー、生きようという意志を持っています。

いつも「今日君たちから受け取ったエネルギーは、必ずコンサートホールで形にするからね」と約束して帰ってくるんです。音楽家が奏でる音には、その人の本質、経験、全てが出ます。音に魂があるような。彼らとの時間は確実に私の音に影響があるんです。だから、音を介してコンサートホールのオーディエンスと子どもたちが繋がる、もちろんそれは見えませんし、オーディエンスは知る由もないのですが、絆みたいなものが結ばれるのではないかと思うんです。ご縁とも言うかもしれません。これは何も彼らのためだけにやっているわけではありません。強いて言えば自分のためでしょうか。

今は(2023年1月時点)コロナによってそれができないことが本当に寂しいのですが、その命のコンサートを三本柱の一つとして、次世代の音楽家の育成をしていきたいと思っています。

佐藤:近藤先生が目指されている「芸術を社会に実装する」ための大切な活動ですね。先生の奏でる音はきっと多くの聴衆に届いていると思います。

近藤先生:命の意味、言い換えると生と死の意味ですが、それは関係性の中で生まれてきます。先ほど申し上げた絆やご縁といった、感じられるけれど目に見えない関係性です。でも、そういったものを感じる機会が、現代社会では減ってきているのではないでしょうか。

代わりに、分断、あるいは関係性のない自律が立ち登っています。これによって何が起こるかというと、それは人間性の喪失です。もちろん、まだ失っていないと思いますよ。でも、放っておいたら本当に危ないかもしれない。少なくとも社会が人間性を失う可能性はすごく高い。そういう社会を作りたいか?と言うことをいま真剣に考えるべき時だと思います。

まとめ

普段私たちは、どちらかと言うと感性にあまり目を向けず、知性を使って論理的に考え効率性に重きを置いて生活しているかも知れません。しかし曼荼羅が二つで一対になっているように、そもそも知性と感性はバランスを取り合うべきものです。感性の欠如が、今社会にある様々な問題の根源になっていると言うお話は、新鮮に耳に届いた読者も多いのではないでしょうか。

今回は近藤先生の活動を具体的なエピソードも交えながらお話しいただきましたが、目に見えない、言葉にできないものを社会実装することの難しさや、活動に対する理解者、支援者を増やしていく必要性も感じているとのことでした。

効率性や多様性、知性と感性が同時に求められる現代に、今一度感性を豊かにする芸術とは何か、改めて考え直してみてはいかがでしょうか。

(対談/佐藤 直人