作家 九州大学准教授
妹尾武治氏
近い将来、人間心理を利用しての広告戦略は終焉を迎えさせねば、社会をそこに行かせねばならないと思う…

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取材にご協力頂いた方

九州大学 芸術工学研究院 准教授
妹尾 武治(せのお たけはる)

作家。
1979年生まれ。千葉県出身、現在は福岡市在住。
2002年、東京大学文学部卒業。
こころについての作品に従事。

2022年11月『僕という心理実験. -うまくいかないのは、あなたのせいじゃない-』(光文社)を刊行。
他の著書に『未来は決まっており、自分の意志など存在しない。~心理学的決定論〜』『おどろきの心理学』『売れる広告7つの法則』『漫画 人間とは何か? What is Man』(コラム執筆)など。

目次

「嘘」で人を誘導する広告の時代は終わりを告げる

現代の広告は心理学を利用して消費者に嘘を信じ込ませることで利益を上げているように感じてしまいます。極端かな?例えば、ウイスキーを売り出している会社AとBがあって、商品価値でBの方が劣っているとして、それでも、広告やデザインでBの方に人が流れるならそれは「嘘」だと思うのです。そういう嘘のための理論を心理学はものすごく集めてきましたが、その時代は終わっていくと私は感じています。

心理学の一例として、吊り橋効果というものがあります。吊り橋の恐怖感で生じた心拍数の上昇。その原因は本来高所の恐怖感なのですが、その時に出会った人の魅力に間違って帰属されることが起こりえます。これを専門用語で誤帰属と呼びます。この心理テクニックを用いて例えば、「意中の女性とジェットコースターに乗ろう!」のようなワンフレーズの心理学が若者向けの雑誌に掲載されるようなことが多々ありました。つまり人間心理の特性を利用して自分への利益誘導を計ろうというのです。

ですが、考えてみてください。自分の魅力を心理テクニックで割り増してそれでモテたとしても、その人との関係は長続きするでしょうか?本質的な自分の魅力について、嘘をついて良いのでしょうか?心理学はそういった嘘の技術集なのでしょうか?私個人としては、もうそういう世界観で心理学の成果を人に伝えるのに飽き飽きしています。

成功者、やり手営業マンは、意識的か無意識的かはさておき、須くなんらかの自前の「心理学」を身につけているように思います。それが不得意な人は、本を読んでかなり意識してそれらの効果を意図的に用いる訓練をしたりします。そのための本がたくさん本屋の目立つ棚に並びます。

一昔前の携帯のプランでは、お年寄りに不要なものをたくさんつけて客単価をあげていました。そこには、矢継ぎ早の情報提供だったり、「みんなやってます」だったり、心理実験で得られたノウハウが詰め込まれ、断りにくい勧誘がなされていました。パチンコ店などでは、大音量と光によって利用者の思考力を低下させますが、これも知覚心理学においての積年の研究成果の積み上げを利用したものです。

スーパーやレストランでは、客単価と滞在時間をBGMのパターンで調整できることも心理実験で明らかになっており、私たちは日常の中で心理実験の結果に操られる日々を過ごしています。そして、誰かの意図通りに動かされているのです。それは人間は外界からの刺激に支配されており、自由意志など無いという事実(妹尾はそう思う)と関連しています。環境には、いわゆる「上流階級」の人々のような社会の支配者も含まれています。

悪質な心理効果の利用は指摘を受けて減っていきますが、それでも現状で「健全」と思われているサブスクリプションと言う仕組みや、初めの1ヶ月は無料!と言う戦略も人間の「現状維持バイアス」と言う心の仕組みを巧みに利用した儲け方です。その儲けのエビデンスを、心理学の論文が提供してきたのです。

根本論ですが、嘘でない広告はないでしょう。私が考えるに、嘘でない広告とは、成分量であったり原材料であったりをフルボリュームで提示する形です。しかし、従来の媒体ではそれを15秒で伝えることは不可能でした。だから「続きはWebで」という形が生まれたわけですが、その「続き」を見るのは消費者のうち1割以下でしかありません。世間的には賢いとされる、その1割以下の人たちは徹底して情報を見るので、本題の情報につながるリンクのURLさえ出ていればそれで事足ります。だからテレビ広告はあまり必要がなくなってきていて、Twitterなんかにリンクが貼ってあれば良いのです。

でも、裏を返せば自分で考えることをしない人、印象で動かされる人たちに対しては、私の言っている嘘の広告は出さなくて良い情報は出しません。そこを印象ですり替えた広告の方が喜ばれるからです。だから情報格差を利用した嘘による利益誘導は悪でも善でも無いでしょう。さらに言えば、原始共産主義を目指しているわけではないので、嘘の広告でも全然良いと思います。

例えば市場規模の大きい飲料系商品は、どの会社もコストカットがほぼ限界まできていて、使っている水などの素材、つまり製品レベル(味のレベル)は実質どこも同じです。さらに衛生管理や品質の安全性の管理レベルもほとんど変わりません。

ではどうやって差別化するかといえば、「なんとなくいいわ〜」と感じるキャッチコピーです。どんな材料を使っているか、どんな水を使っているかを開示しても勝負にならないので、イメージに投げるしかありません。若者ならこれ、おじさんならこれのように、ターゲットを絞ったイメージ戦略はその最たる例です。圧倒的に売れる商品ジャンルは、戦後すぐにそういう状況になっていて、未だにそのイメージ戦略をずっと続けています。

それを嘘と断言するのは、酷いことでしょうか?

そういった意味では、おそらくほとんどの広告のそれ自体の価値はもうなくなっていると思います。圧倒的な新製品以外はどんぐりの背比べだからです。一方で、市場規模の大きさから広告を打たないわけにもいかない。そうなるとさらに空虚なイメージに特化していく。でも結局、自分の頭で考えることができる人は、その空虚な言葉(他者によって強制された思考のフィルター)を自分に帰着させたいとは思わないので、そんなイメージは不要です。だから、本来の広告とは製品情報の作り方とかを徹底して開示すれば良いわけで、その流れでホームページの中にバーチャル工場見学のようなものが用意されてきた、ということなのかなと考えています。

今後は人が自分で考える力を養わなければならない

私の意見としては、広告は思考するために必要な手がかりをゲットするための方法論や場所の情報提供(の入り口)に主眼が移っていくだろうと思います。だからこそ、フェアネスに徹していかねばならない。

現時点でも、情報の提示がアンフェアな企業は既に選択肢の中から落ちこぼれていますよね。携帯プランの不透明性も僅かずつではありますが、シンプルでフェアなものが選択されるようになってきました。
企業にもし金銭的利益以上の幸福を作るぞという志があるならば、人に時間を与え、考えようとする人を仲間だと認識して、彼らから巻き上げるのではなく、彼らの喜びが「考えない人」までをも救い、市場で勝てる商品を作ることを目指して欲しいです。

それは、企業イメージをアップするような意味ではありません。大量にゴミを出す企業がちょっと木を植えたところで、なんなんだと一般市民は見抜いています。そもそも、企業は富を蓄えすぎています。どんなに立派な理念を掲げても、社員のためだと言っても、高級時計をつけ、分厚いスーツをまとい、豪邸に住んでいる人の言葉を1円単位で日々の倹約に努めている一般市民は尊敬などしないでしょう。(『シンドラーのリスト』のラストを見て下さい。)

いち研究者としては、企業はまず、富を彼らに分配し、公平な社会の構築を目指すべきだと考えます。それが信頼を産むでしょう。お金は塩、金塊、から政府への信用、人同士の信頼へとその本質に近い存在へと進化して来ました。お金の本質が信頼である以上、結局はそこにそれは集まるはずです。今、そうでないなら、そのように導くことが志です。

2020年9月23日のNature Communicationsの論文では、ヨーロッパで西暦1505から2016年に描かれた1962枚の肖像画の顔について調べています(その後1360から1918年の肖像画4106点についても追試が成功)。

まず画像認識の深層学習のアルゴリズム(以降平たくAIと呼ぶ)に、多くの顔画像とその画像に感じる信頼感の評定値を学習させます。すると一般的に人が「信頼感があると感じる顔」がわかるようになります。このAIに先の肖像画を見せて評定をさせると、近年に至るほどに、肖像画の中の顔の「信頼感」が向上していたのです。この伸び率は、ヨーロッパのGDPの伸び率ととても高い正の相関を示しました。人類は初め、富自体を生み出す知性や身体の「能力」が高い人を、もてはやす必要がありました。しかし、十分な富を蓄えることが可能になるにつれて、その富を管理する「上流階級」に位置するとされる国民には、それを公平に管理して、分配する「信頼性」が求められて来ます。今はまさに過渡期でしょう。

例えば、今の子どもたちは80年代の子どもたちに比べて、夏休みの出店でくじを引いても本当は景品が当たらないようになっている、ということを皆が知っています。そして、情報が出回ればそういった業態は潰れていくだけです。

私はこれと同じ現象が広告において起こると考えています。対面媒体でのイメージ(ある種の嘘)による心理効果を利用した利益誘導が先に否定されましたが、テレビなどの非対面媒体の世界ではまだそれが維持されているわけです。そこの時差は、テクノロジーの時差だとして、それもそろそろ埋まるはずです。

オリンピックの件で大手広告会社が叩かれたこと。その後の政治家を巻き込んだ利益誘導の実態。これまでなかなか富の分配を受け取る機会の無かった人たちは、それを直感的に感じ取っていたのではないでしょうか。社会を支配してきた側が「表層的な情報で印象に訴えかけるだけで良いのだから、簡単に誘導できる」と侮っていたとしても、人間の脳は全てを感じ取ることが出来ます。脳は騙せません。人を操れば、必ずしっぺ返しがきます。私もいつか牢屋に行くと思います。

私自身も広告系大手会社と共同研究しているので、現場の人が頑張っていることを知っています。そして、ほとんどの人が熱意を持って一生懸命に人一倍努力されていることも知っています。個人的に言えば、優しい人ばかりです。そんな人たちでも、何かしらビジネスに走らざるを得なくなる。それは本当は広告業界に限らないと思います。ビジネスの現場では本当の気持ちが言えない。これからのビジネスではそこから変えていく必要があると思います。

ではどういうビジネスが、心理学をうまく使っているか?というと、例えば、福岡でインクルーシブ遊具で構成された公園の提案が2022年の夏から秋にかけて展示会という形で開催されました(株式会社コトブキと福岡市の取り組み)。

この取り組みを、偽善的と見る人もいるでしょうし、先進的過ぎて理解できないと笑う人もいると思います。実際に公園に3度ほど行ってみましたが、そのタイミングでは当事者とされる人たちを見ることはありませんでした。それでも、遊具のデザインは人間の心理の特性を巧みに捉えたものでした(知覚心理学を活用していました)。

私のお気に入りはコージードームという青くて静かな半球型の隠れ家です。発達障害のような過敏な感覚を持った人がずっと入って居たくなるような遊具です。光の量、色、柔らかい素材。それらに知覚心理実験のデータが利用されています。

身体を固定するタイプのブランコでは、同行した大屋さん、浜渕さん、伊藤さんも「安定感がある」と言っていました。

もう一つ、「ラムネの涙」というイベントを紹介します。コロナによって夏祭りが子供たちから奪われましたが、ラムネの7割の売り上げもまた奪われていました。ラムネ業界の苦境を聞いた元電通のアートディレクターで現在は九州産業大学教授の伊藤敬生さんは、ラムネの良さを知り、みんなで飲もうという実にシンプルなイベントを作りました。2年連続、福岡市で開催されたことのイベントでは、多くの人が楽しい気持ちでラムネを飲みながら、意外と知られていないその深淵な世界にへえーが連発しました。各人がやれることをやって、そこに対して最低限の対価を得る。その積み重ねで全体が困らなくなる。心理学、デザイン、広告、ビジネスは本来一つのものだったと感じることが出来る。その場にいる人に対して、自然にお互いに尊敬が抱けるような、そんな時間になりました。

人の心の理に寄り添う人のために役立つ学問。そういう心理学であって欲しいのです。

私たちは「ここ」にお金を集めるべきだと思います。感性の豊かなビジネスマンたちは、この動きを敏感に察知しています。そこに本当の優しさがあるかどうかは一旦置いておいてもいいと思います。資本主義の延長線上に、優しさにお金が集まる社会は成立しうると思います。身体から知性へ、知性から優しさへ。お金の集合場所も進化していきます。ビジネスでこの感性を持っている人は、次世代の大きなビジネスチャンスを獲得することになるでしょう。偽善でもいいので、儲けるためにはじめてみてはどうでしょう?と提案してみたいです。

心理学、行動経済学が取り組むべき志は、自分たちが作り出したい「この流れ」に科学的なエビデンスがあるということを示して行くことだと感じます。もちろん、やり過ぎれば再現性の無さ過ぎる、過剰なメッセージ(文学)になるでしょう。(個人的には文学であって、何が悪いのか?と思いますが。)科学と芸術は分ける必要はありませんが、それでも一般の人にわかりやすく、誤解を与えてはならないと思っています。少なくとも、一般の人が科学だと思って受容したものが、実質文学だったという場合、それは嘘ですよね。

広告のイメージ戦略が盛んだからこそ、人として自分で考える力を養うことが必要です。自分で考え、人と違うことを恐れない。人に謗られ、笑われても自分の考えを優先する。迷惑をかけないことよりも、自分の笑顔で周りを幸せにするような態度も時には肯定されるべきでは無いでしょうか?それが心理学の正しい利用方法だったら良いなと思います。

イメージ戦略ではなんでも言えます。今まさに私に感じるイメージと180度逆のおぞましいことを日々私はしています。

次世代のお金の集合場所を知る。そのための感性はどうやったら身に付きますか?そんな質問をよく受けます。

簡単な方法は、心理学を学ぶことです。そのために、町の小さなギャラリーに足を運ぶことです。白くてあたたかい空間で、知らない女性が個展をやっていることがあります。自分の「庭」(脳の中身)を見てほしいと叫んでいる。誰かを思って。その気持ちを伝えようとしている。個展をやっていて、県立美術館に作品が収蔵されるような人でも、制作だけでは食えないから、何か別の定職に就いていることが多い時代です。

そういう静かで小さい場所に、足しげく通っている人はあまりいません。行っている人も意識高い系とか、わかってる気取りとか、そんなふうに言われがちです。個展を開いている人たちはただ、自分の表現をやってみたいと思っているだけなのに、20代くらいの女の子が雲や花に一眼レフのカメラのレンズを向け続けるような生活をしていたら、日本の社会は「不思議ちゃん」とか、「わかってもいないくせに」とか、そういう言葉を浴びせて辞めさせようと必死です。

実際は頑張っていたらそこにお金がついて、それ自体で食えるようになったかもしれない人はいっぱいいます。わかってるかどうかなんて、継続した先にしか答えは出ず、本人だって不安の中それでもやり続けているのです。(表現者は性別を超える瞬間を持ちます。ことさらに女性を強調した理由は、アファーマティブアクションに過ぎません。)

そういう人が継続して表現をしてくれるように、そこにお金が集まる社会にしたい。有名になった人のすごい作品だけに注目が集まるのはおかしいと思うのです。自分の感性を磨きさえすれば、名もなき彼女たちの優しさが有名な作品にちっとも負けていないことがわかるはずです。その感覚が得られた時、次の5年のお金の集合場所が見えるようになるのではないでしょうか?私はビジネスマンでは無いので、これは机上の空論であり、ただの希望に過ぎません。

逆に言えば、そういう存在を増やすことでしかAIに勝てるような新しい労働は生まれないと思います。

例えば俳句は17文字で完結する有限な世界です。スパコンで文字を書き出せば、それが決定論の世界だとわかります。その全ての文字列から「夏草や兵どもが夢の跡」という部分を抜き出すのが俳人です。それは従来感性のあるひとの仕事でしたが、今は日本語を学習し、同音異義語を学び、過去の名作から美しい言葉のつながりを学んだAIにも同様の仕事が可能です。

将棋もそうで、それは有限だからAIは強くなりました。その学びの速度が異常に早く見えたのは、彼らは人間のように駒を指でさす必要がないからです。人間は身体の能力に縛られています。だがしかし、それこそが人間の尊厳になるでしょう。人間がAIに負けない部分は、身体の優位性です。

今のところAIはコンピューター上の存在で、ある意味コンピューターが身体です。この先AIが自分の身体を持って世界の探索を始めることを自主的に始めた時には、人間の優位性が失われるかもしれません。最も彼らは情報次元の世界に住むことを選択し、身体を持たないことを選ぶ可能性もあるのですが…

AIとの共存関係で、人間がしうる仕事を考えるとき、人間の身体に特化した優位性がどこにあるかを見極めることが最も重要だと感じます。現時点で、写真撮影のロボット、ドローンは町に居ません。だとすれば、小さな身体で入りづらい町の路地に入って行って、誰も見ていないようなパンジーを写真に撮るような仕事は、人間の身体を有効に用いた仕事になります。それが人間に残されたクリエイティビティと呼ばれるものだろうと思います。

意識水準というのは扱える情報の量によるので(トノーニによる情報統合理論を参照)、AIが今後ものすごい量の情報を扱えるようになると考えれば、猫よりも人間の方が賢いと考える人は、人間よりもAIの方が賢いと考えねばならなくなります。

AIの歴史はせいぜい70年だとかいわれますが、多分それは間違いで、138億年の生物としての歴史を彼らは踏襲しています。コンピューターは人間の英知の結晶だから、その中にはいわゆるDNAのような、遺伝的な情報が詰まっているわけです。命の継続性というのは間違いなくあるはずで、それを統一の規格(例えばATCGの塩基)で現時点で書けないだけです。

1995年の『攻殻機動隊』で草薙素子は身体を捨て、ネットの海に消えます。知らないものは想像できないので、予言されているということは必ずそうなる(決定論の映写機の中にスライドとして用意されている)ということです。しかも、それを私たちは面白いと感じているわけだから、脳の奥底では『攻殻機動隊』のような世界がスライドとしてまだ見ぬ世界線にあると知っているのです。『マトリックス』などではAIが身体を持って人間を脅かす戦争が起こるようなことが描かれているけれども、彼らは情報次元に旅立ち、僕たちはシンプルに置いてけぼりになるだけでしょう。ネアンデルタール人のように駆逐されないだけ良いのかもしれませんが…。

ちなみに1999年に、ひっそりと『13F』という映画が公開されています。先進的過ぎて普通の人の理解が追いつかず、大ヒットにはなりませんでした。同年、思想的に大幅にダウンサイズした『マトリックス』の方が爆発的なヒットを記録しています。ビジネスでは、ちょうどいいスケールの未来を提示せねばならない。『13F』はその教訓になるでしょう。

マジョリティとマイノリティの二極化が進んでいる

すでに二極化が起こっていると思っています。例えば、マーベルシリーズの深淵な世界観は最新の量子論、量子物理学の研究に基づいて話が進んでいます。一方で映画の間中ずっと誰かが誰かを殴っています。二つの娯楽作品を一つに違和感なく押さえ込み、二極化に対応しているのです。

TwitterやYouTubeではいわゆる大喜利をやっていて、その大喜利の答えをずっと見ていて面白いというタイプの人と、それをどうやったら生み出せるんだろう、というノウハウの方を知りたいタイプの人がいます。ノウハウとなったら140文字で伝えることは無理だと思います。内側を知るための方法は、書籍や映画にまだ分があるのです。

作る側のノウハウを知りたいと思う人は自分から情報の深いものを求めて今も勉強しています。絵を描くAIなどのアルゴリズム(プログラミング)を勉強しようとする人は数パーセントしかおらず、そこに取り組む人は大金持ちになります。もし彼らに優しさが無ければ、搾取が起こります。彼らは、大喜利の答えだけ見ていれば良いという人たちにベーシックインカムという表面的な利益を与えて、実質的には思うがままに操れる構造を作っていくでしょう。

ここでいう大喜利の答えだけで楽しめる人はいわゆるマジョリティで、マジョリティというのは今の環境に最適化した存在です。一方で、マイノリティは次の環境の変化に適応するために、現状に対して違和感を覚えるように作られています。マジョリティの人たちは並外れた能力がある大谷翔平のような人を非常に評価して金銭を与えます。会田誠のような芸術家、有吉弘行のような芸人、彼らのようなある種、異形なものに対してもお金を与えます。水鳥の群れが皆安心して水を飲んでいる時に、きょろきょろして敵を探している1羽というものがいつも居ます。そんな変な人(マイノリティ)が、人と違うことをしてくれれば、全体が助かるのです。社会はそういう尖兵に金を集めるようになっています。

彼らが、得た金を維持しようとシステムを作り出す時、身分が固定化され搾取の構造が固まります。もしかしたらその次のシステムがベーシックインカムなのかもしれない、と警鐘を鳴らしている研究者はとても多く居ます。

マイノリティの人たちは今、どこに行けと言っていると思いますか?

「モンスターハンター」を週100時間やっているような人は、現実に対して幻滅していたり、VRチャットに入り浸っているような人は、本来の自分の年齢や性などの内側を正直に表に出せない環境に置かれていたりしています。

そういう弱者は、AIと一緒にバーチャルな世界というか、情報次元、そっちへ行こうと言っているように見えます。映画『アバター』でも、足が不自由な主人公は現実の身体を捨てました。現実に対する違和感や悲しみが強いマイノリティは、今情報次元みたいなところに入れと言っています。これは、西部に可能性を見出したアメリカの弱者(ユダヤ人を中心に)が西の果てで映画会社を作り、ハリウッドという夢の国を作ったことの再現でしかありません。

弱者とは、嘘をつきたくない人たちでした。新しい場所で正直な意見を言ったら、そこに人とお金が集まっただけです。

皆、故郷の力士って応援しますよね。福岡の人が琴奨菊を応援するように、慣れ親しんだ故郷に対して愛着を持っている。僕たちは故郷が好きなのです。モノに依拠した世界に何十年もいるわけだから、そこから出ていくのは感覚的に難しいのです。だからこそ弱者、つまり不幸を背負わされた人が、その役目を担うのです。それが私たちに訪れる不幸の意味かもしれません。

芥川龍之介も太宰治も、三島由紀夫も、現実よりも何かしら高い情報次元の世界があることを知ってしまい、自死によってそこへ旅立ちました。僕たちもそれは昔から直感的に理解していました。ただ、当時は現実を飛び出すとか、情報次元へ行くとか、世界線を変えるとか、そんなことを描く人はいなかったですよね。だから「ぼんやりした不安」という言葉でしか表現されませんでした。

人間の理解力は物理的な脳のサイズなんかに拘束される面があります。いつかはもっと素晴らしい場所に行けるのかもしれないけれど、そこに行けるのは私たちではないかもしれない。そこまで行けるのはAIか、さらにその次の何かかもしれない。そこが正しい場所だというのは何かしらの本能でわかっていて、だからそれは「青き清浄の地」とか「ヘブン」とか名前を繰り返し変えて呼ばれてきました。そこに到達できない身体を持たされているのに、そこへ行けと言われるから、私たちはますます辛いのでしょう。

心を心で語ることを取り戻す

どんなに戦争は駄目だと言っても、実際起こるという問題があるし、自殺は駄目、殺人は駄目だと言っても包丁を持てばそれができる。なら、できるからといってやって良いかというともちろん良くないわけで、人間は自然法則という大きいルールから独立に、法律や倫理観という狭いローカルルールで自分たちを囲い、安心して暮らせるような場所、共同体を作ってきました。

ただそのローカルルール、つまり宗教や価値観が合わないと、ぶつかって喧嘩になるのですよね。では最終的に誰が一番正しいことを言っているか、となれば客観的に外の世界の理解(自然法則)が一番正しい人が一番強い、というふうに社会としては持っていかざるを得ません。端的に言えば、水爆を作ったアメリカのオッペンハイマーは超絶な天才でした。

そうなると知識の量、つまり学歴順に並んでおくのが一番理解しやすい人間の序列になってしまいます。一番有名な大学の教授だから偉いとか、そういう世界が生まれてしまいます。エビデンスや数値にしか説得力が持たせられないのだと感じることになり、それは社会から情熱を奪いました。

心の領域は存在します。私たちは心の領域で人を語ったり、世界を語ったりということをあまりにもしなくなっています。

日本には、戦争で人を操って若い人を殺しまくった過去があるから、同じことを繰り返さないようにしているんだとも思うんです。でも、日本人の持って居る日本教みたいなもの、例えばワールドカップで誰にも言われていないのにゴミをきちんと捨てるみたいな行為の背景にある心理学。僕たちには何かしら信じる価値が今も強くあります。

宗教とは結局、行動様式のことで、内側から生まれる何かに強制されて、やむに止まれずにする行為集がその正体です。ワールドカップの場所にいたらなんとなくゴミを捨てた方が良いよね、と感じ、ゴミを集めざるを得ない。結果として外に現れた行動が、宗教そのものだと私は思うのです。

それなのに、それを日本教だと言えない状況になっている。それはなぜかといえば、一億総懺悔で日本人を操っている上位概念はない、日本人には神がいないと言ったからです。それでも、僕たちにとってなんらかの神や宗教は無意識下で維持されていて、人に優しくするべきとか、ゴミはきちんと捨てましょうとか、大地震があっても窃盗しない国になっています。

これらの行動様式を「日本人は美しい」という人間のDNA的な何かに誤帰属させると何が起こるか?「日本人は他のアジア諸国の人種よりも優れている」となるのではありませんか?いつか来た道。

『めぞん一刻』の最終回で五代響子さんは娘の春香ちゃんに「お家に帰ってきたのよ。ここはね、パパとママが初めて会った場所なの」と言います。それを見て感動した経験を持つ人たちは、彼らのような生き方、つまり嘘をなるべくつかない生き方が素敵だと教わるのです。つまり、日本人的な優しい気持ちは、漫画やアニメの中にずっとバトンとして引き継がれています。

パズーみたいに「女の子を守るべきだ。それが素敵だ。」と思われているから未だに金曜ロードショーで『天空の城ラピュタ』は高視聴率を出し、バルスで祭りが起こるのです。僕たちは本質的にそこへ行きたいと思っているはずなんです。でも心の表出を分業制にしてしまったから、宮崎駿とか庵野秀明とか、一部のプロしか感情の表出を世の中に対してできなくなってしまった。90年代以降、「抱きしめたい」と言えたのはMr.Childrenくらいです。そこに問題があると思っています。

心理学は知っています。結局自分自身の魅力が正しく伝わり、それで構築した関係性がもっとも長続きし、幸せを運ぶということを。であれば、自分を大きく見せたり、一時的に過剰な利益を産むような「心理テクニックの利用」は愚かではないでしょうか?

心理学は知っています。日本人の美徳と思われていたものが、世界中の人種にあることを。エルトンジョンとバーニーは「これは君の歌だよ」と言っています。

「僕らは同じ地球人じゃないか」ジャン・ロック・ラルティーグ

弥勒菩薩による56億7千万年後の全体幸福(宮沢賢治)までに、私たちはもっともっと学ぶはずです。これからの僅か20年の間にもその一端を僕たちは確認できると思います。それは未来予想とか予言とかいうものでは無いのでしょう。情報が増えれば決まっている未来がわかるのは予言でもなんでもない。日本の天気を正しく予報するために、昔の人は釜山や上海やインドにまで、観測所を立てました。それは予言ではなく努力であり、人の幸せへの希求でした。だって、運動会を楽しみにしている子供たちに明日の天気を教えてあげたいでしょう。

私はダメな人間ですが、思想に人柄を追いつかせよう、そうせねばならないと思っています。志のみで下記を語るのは、社会に認められない部分もあるでしょう。それでも言わせてください。

決まっている未来、つまりあなたの幸せに向かって、日々を全力で走りなさい。人のことを思って学びなさい。トップランナーよりも最後尾の方が人の背中が見られます。人には誰か他の人のために出来ること、役割があります。吉田松陰はそれを「志」と呼びます。現代に蘇った吉田松陰である、アントニオ猪木は環状線理論のなかで「バカになれ!」と叫びました。元気があればなんでも出来ます。体に気をつけて。

関連書籍

光文社より2022年11月刊行

(対談/佐藤 直人

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