オックスフォード大学 教授
苅谷剛彦氏
「わかったつもり」は思考停止と同義!日本文化を背景に持つからこそ見える強みとは?

日本はアメリカやヨーロッパの国々に比べ、しばしば議論が苦手であると指摘されます。

こうした議論の不得手さは、トレーニングを行ってもなかなか改善しづらいものですが、原因を深く掘り下げていくと日本人特有の思考停止の癖が浮かび上がります。しかし、この癖は同時に日本文化を背景に持つからこその強みとして発揮されることもあるのです。

そこで今回は、この日本人的性質「思考停止」に陥ってしまう原因、および、逆にその特徴はビジネスにおいて活きるものなのか、『思考停止社会ニッポン』著者のオックスフォード大学教授 苅谷剛彦先生にお話を伺いました。

取材にご協力頂いた方

オックスフォード大学教授
苅谷 剛彦(かりや たけひこ)

1955年東京都生まれ。東京大学教育学部卒。同大学院修士、ノースウェスタン大学で博士号取得(社会学)。東京大学教育学部教授を経て2008年よりオックスフォード大学社会学科およびニッサン現代日本研究所教授、セントアントニーズ・カレッジフェロー。専門は社会学。主な著書に『大衆教育社会のゆくえ』(中公新書)、『階層化日本と教育危機』(有信堂高文社)、『追いついた近代 消えた近代』(岩波書店)、『コロナ後の教育へ』(中公新書ラクレ)、『思考停止社会ニッポン』(中公新書ラクレ)など。

曖昧さに慣れて「わかったつもり」になると思考停止してしまう

オックスフォード大学教授の苅谷剛彦氏とエモーショナルリンク合同会社代表の佐藤直人のインタビュー画像

苅谷剛彦氏(左)と佐藤直人(右) 撮影/ヨシダ タカユキ


佐藤:『オックスフォード大教授が問う-思考停止社会ニッポン-曖昧化する危機言説』で、苅谷先生は日本人が思考停止に陥ってしまっていると指摘されていますが、原因としては何が考えられるのでしょうか?

苅谷先生:もちろん政治や社会構造の問題もあるのですが、原因をより深く探っていくと、日本の文化的な背景や、それと直結する日本語という言語の特徴など、複合的な問題が浮かび上がってきます。それらの問題について、順を追って説明していきましょう。

まず現状を確認すると、今の日本社会は政治や経済、国際情勢、また高齢化や少子化、格差など様々な問題を抱えています。しかし、有効な手立てが打てていない時間があまりにも長すぎるわけです。少なくとも30年以上はそれぞれの問題が解決できていないことは、当然、日本の人たちにとって嬉しいことではないし、社会全体にも多様な問題を引き起こします。

その大きな原因が、問題を解決するための議論、前に進むための議論ができていないことにあります。問題解決に向けて議論しているつもりでも、空回りしてしまっているんです。

佐藤:確かに、日本では物事の進行スピードが遅いと感じる面があります。なぜ、なかなか議論が進まないのでしょうか?

苅谷先生:ひとつは、日本には日常的な対立を避けるために調和を重んじる風潮があるためです。例えば英語のambivalenceという言葉には、愛することと憎むことのような相反するものが共存する、緊張関係を保ったまま対立する、といった意味があります。本来ならambivalenceに象徴されるように、異なるアイデアや意見をすり合わせて、その中からより良い解を見つけ出していきます。それこそが多様性であって、全てを無理に調和させる必要はありません。

しかし日本では、はっきりと白黒をつけて異なるグループにわけてしまう風潮があります。これは日本が歴史的に、他民族が入り込んだり、移民が入ってきたりしながら社会を形成していくという経験をしたことがない社会だからこそ持っている特徴です。まったく違う文化や異なる言語の人々と対話し融和する経験がない分、日本ではかえって単純に白黒をつけるような議論になりやすい。白黒わけると誰が敵で誰が味方なのかがハッキリして、安心できますから。さらには、対立はしていても緊張関係が緩んでしまうこともよくあります。そうなると、そこから先へと議論が進まず、認識が浅いままで終わってしまうわけです。

佐藤:そもそも、日本の文化的な背景に原因の一端があるのですね。

苅谷先生:そしてもうひとつ重要なのが、日本語の中には、翻訳された外来語が数多く存在していることです。これは単にどういう単語を使うか、それぞれの言葉が持っている意味は何か、ということだけではありません。言葉の使い方は文化や歴史にも根ざしていて、日本においてはそれらが曖昧な捉え方のまま使われてしまっていることが問題なんです。

外来語というのは英語を含め西洋の言語に限ったものではなく、中国から入ってきた漢字の二字熟語なども含まれます。ですがその言葉の元々の意味を知っているか、という問題になると、翻訳の過程では意味の変容が起きるため、実は元の言葉との間にはズレが生じています。しかも、西洋語からの翻訳語の場合、100年以上も使っているとズレたままで定着してしまう。例えば「個人」という言葉が英語のindividualとイコールかといえば全然そんなことはないわけです。同様に「権力」は英語だとpowerですが、誰かから命令されて従うような場合の力のほかに、本来の意味だと何か物を動かしたりする力という意味がもともとあります。いわば日常語です。それを権力などという難しい言葉にしてしまう。問題は、こうして翻訳された言葉は「わかったつもり」にさせる魔術を含んでいることです。

佐藤:「わかったつもり」で言葉を使うと、どのような弊害が生じるのでしょうか?

苅谷先生:思考パターンとして、抽象から具象へ行く間に曖昧さが入り込んでしまい、思考停止へとつながってしまうんです。よくわからない「難しい」言葉に出会った時、「この言葉はどんな意味なんだろう」と立ち止まって意味を突き詰めていくような習慣があればいいんですが、私たちはもう1000年以上外来語を使って日本語にしてきた民族です。そのため、言葉の元の意味にあまりこだわらないままコミュニケーションが進むことに慣れてしまっています。言い換えれば、元の言葉の意味と多少のズレがあっても曖昧さとして許容し、気にしないままでキーワードとして使えるようになってしまった。こうした背景を考えると思考停止に陥ってしまうのは半ば仕方のない面もあります。

しかも、最近の日本語にはやたらとカタカナ表現が多いですよね。翻訳の時点で意味がズレているのに、元々どんな意味なのか、その言葉を生み出した社会における文脈との関係も意識しないままで、日本というまったく違う文脈に移し替えて使っている上に、音だけを取ってカタカナにしたり、さらにはDXなどの頭文字だけを使うことも増えている。先ほどお話しした白黒つける文化にとって、こうした言葉は都合が良いんです。まずは白黒つけて仲間を除外し仲間内で通じる言葉にする。そうでない時はなるべく曖昧に、緊張を伴わないようにするというコミュニケーションは、「難しい」ゆえに空虚な言葉を使うことで非常にうまく馴染んでくれる。つまり、この両方があってこそ日本人特有の思考の癖が作られてきたし、問題を突き詰めないことに慣れてしまった、といえます。これこそが議論が空回りする原因なんです。

佐藤:なるほど。言語の問題を紐解いていくと、欧米では活発な議論がなされていると言われる理由に納得がいきます。

苅谷先生:対立や葛藤のないところで進歩はなかなか生まれません。そういう意味では、異質なものをどうやって社会が受け止めていくかという部分で、西洋諸国と日本との違いが出てきていると思います。

特に日本は日常生活で使っている言葉との隔たりを持つことが、ある時代までは「教養」として捉えられてきた歴史があります。「難しい」言葉、つまり翻訳語でできた教養です。大学の授業というのは、私たちの時代は先生が古いノートを広げてそれを読み上げる、一方的に話すだけの講義がほとんどだったんです。教育を受ける際にもひとつひとつのピースには外来語が入ってくるので、それによって組み立てられた文章にはどこかよそよそしさが出てしまう。そしてその講義で出てくる言葉はほとんどが曖昧さを含んだ「難しい」翻訳語なので、そうした理解の仕方を再生産する仕組みこそが教育だったわけです。

抽象的な概念を日常生活の中にある言葉に近づける方法としては、ほかの言葉で言い換えてみたり、具体例を挙げるなどの訓練が挙げられます。また、ある言葉が本来持っている緊張関係に立ち戻り、要素と要素の間の関係性を考えることも大切です。こうした取り組みを繰り返すことで言葉への理解が深まり、思考停止に陥るリスクを下げられるでしょう。しかし前提として複雑な歴史や社会制度、文化の中に言語も組み込まれていて、思考の癖はそれらの混合体であるからこそ、とても厄介だということは理解しておくべきです。

佐藤:ここまで歴史的な背景に影響を受けているとなると、早期の解決は難しいのでしょうか?

苅谷先生:文化や言語に根ざした問題なので、残念ながら社会全体としてすぐに解決することは難しいでしょう。グローバルに見ると経済や技術においてどんどん遅れていくので、ネガティブなところはどうしても目立ってしまうと思います。

ですが見方を変えれば、対立を繰り返して問題を乗り越えていくようなやり方は、非常に大きな対立軸を国内に作り出してしまう可能性があります。アメリカでもイギリスでも、そういう傾向の政治家が出てくるようになってきていたり、韓国では大統領が変わるたびに前職の犯罪が問われたりしていますが、日本ではそういった事例はあまり見ませんよね。西洋諸国に比べると問題解決までのスピードは緩やかでも、進み方が遅いからこそ秩序や安定が保ちやすい、というのもメリットといえるのかもしれません。それに、日本の文化が持つ特有の曖昧さは、時に海外から見て非常にユニークなアイデアを生み出すこともあります。必ずしも悪い部分ばかりでもないんですよ。

日本が生み出す「ハイブリッド」は曖昧さがあるからこその産物

佐藤:海外から見て非常にユニークなアイデア、というと?

苅谷先生:例えば、代表的なものだと外国人観光客の方がよく話題にするウォシュレットトイレです。西洋の方に「アジアに旅行するならどこが良いですか」と聞くとほとんどの場合、「日本だ」と返ってきますよね。なぜかというと「安全だから」「衛生観念が発達しているから」「食べ物がおいしいから」「ホテルや公共交通などのインフラも含めて便利で治安が良いから」などが挙がってくる。これは日本が西洋化によって得た恩恵で、西洋の方から見ると安心して行ける国の条件を十分満たせているから出てくる言葉なんですが、実際日本を訪れてみると西洋諸国と違うどころではないんです。

ある意味、別の文化を体験する。ホテルでトイレに入った途端に水が出てくる。センサー付きで温度管理までできるトイレなんて、近代化によって得た先進的な技術がなければまずできません。それが作られたこと自体、先進的な技術に日本人特有の衛生観念、文化が合わさってできたもの、といえるわけです。

佐藤:西洋のような近代化を目指して磨き上げてきた技術だけではなく、そこに日本人ならではの視点をミックスしたからこそ生まれるアイデアもあるのですね。

苅谷先生:そうです。日本人には個性がない、とよくいわれますがそんなことは全くないですよ。むしろ、日本ほど受容性を持った文化を作りあげた社会はほかにはなかなかありません。私は15年以上海外の大学で教えていて、日本を離れて英語で仕事をしていますが、そういう視点で見るとむしろ、日本で生まれ育ったこと自体が個性なんです。

日本は西洋圏以外で最初に近代化に成功した国ですが、その後に富国強兵で大失敗をして、原爆を含め空襲で国中が焼け野原になり、さらには戦地で多くの国民が亡くなりました。アジア諸国にも大きな犠牲を強いました。そこから1945年をターニングポイントとして、近代化をやり遂げるために次の富国、つまり経済的な豊かさを目指したわけです。その長い歴史の中で、日本人が培い、作り出してきたものは西洋を模倣しつつも西洋と似て非なるものが少なくない。アジア的かといったらアジアでもない。そこにfar eastで、かつfar westな日本のユニークさが出てくる。

最近はいろいろな国で日本の70〜80年代に流行ったJ-POP、シティ・ポップが聴かれている、という話もありますが、この音楽にしても同じです。日本人からすると不思議に感じるかもしれませんが、西洋人がJ-POPを聴くと、コード進行など西洋音楽とは異なる要素がたくさん入っているといいます。日本人は近代化にあたって音楽に関しても一生懸命、西洋音楽を模倣しようとしました。ですが完璧には真似できないまま、西洋的音楽の輸入や模倣を始めてからほぼ100年後にJ-POPが生まれた。それがかえってユニークなものとして海外でも聞かれている。

佐藤:そう考えると、曖昧さが根づいていることで逆に日本らしい製品やサービスが送り出されてきた、とも捉えることができて興味深いです。

苅谷先生:異なるものを調和するためには曖昧さが必要で、AとBがあった時に、これらは違うものだ、対立するものだと捉えてしまうと調和には至らない。だから、調和するためのスペースが生まれる曖昧さを文化の中に含むことは、そういった意味では大きなメリットといえるでしょう。もちろん、それは妥協でもありますが、ユニークな妥協です。

翻訳でいうなら、ローカル化するということはそこに必ず文化の要素が入り込みます。つまり、翻訳によって少しずつ意味が変容していくわけです。そういった変容が、学問に限らず科学や技術の分野でも行われ、異なる文化を取り入れ続けてきた。だから日本語に翻訳して積み上げてきた知識や、日本(語)化することによって生まれたものはハイブリッドとも呼べる文化で、それはグローバルに見れば、人類にとっての知識の宝庫ともいえるものです。

「ハイブリッド」の名を冠するハイブリッドカーは、まさにその最たるものでしょう。今はEV(電気自動車)が主流になりつつありますが、製造過程や発電の際のCO2排出まで考えれば、究極のハイブリッドの方がもしかしたら優れている可能性もあります。特筆すべきはハイブリッドという発想に至ることそのものであり、異なるもの同士を組み合わせるというアイデア自体が非常にユニークなわけです。

佐藤:長く海外を拠点に活動されてきた、苅谷先生だからこそ説得力のあるお言葉ですね。

苅谷先生:日本語で学び、日本の文化や歴史のこうした特徴を自覚している人なら、今回お話してきたようなことを身につけていることそのものが個性だ、と胸を張って良いと思います。知識の宝庫があったとしても日本語が読めなければアクセスができないし、日本に住んでいる人たちにとっては当たり前過ぎて宝であることに気づいていません。だから日本にいる人たちはお互いに個性がない、と言い合っています。ですが、一歩世界に出れば、日本で生まれ育ったという経験、歴史や文化を背負っている私たちの考え方はハイブリッドという点でユニークだといって間違いないんですよ。

このユニークさ、すなわち個性は、他の国の人々とは違うレンズを通して世界を見ていると言ってもいい。しかもそこに協調性があって、ハイブリッド化しているから、異質性と共通性が同居しているような状態です。そうやってハイブリッド化できることは、唯一無二の技術なので、ぜひ日本で生まれ育ったという強みを、思考停止に陥らずに、ビジネスや仕事の面でも活かして欲しいですね。

当事者意識を持たなければ次の50年が抱える問題には立ち向かえない

佐藤:貴重なお話、ありがとうございます。最後に読者の方に向けてメッセージをお願いできますか?

苅谷先生:日本の文化や言語に根づく曖昧さ、あらゆる場面において思考停止に陥りやすい状況を乗り越えていくには、当事者意識を持つことが何よりも大切だと思います。ぶつかり合ってでも議論し続けることも重要ですが、それはあくまでも手段の話であり、目的ではありません。実際にゴールである問題解決に向けて動かなければならないのは自分自身である、という自覚を持たなければ、実のある行動には結びつかないでしょう。

例えば今、20代や30代前半の方々は、おそらく今後の人生で30~40年ほどは現役を続けると思います。ではその間に日本の社会や世界がどう変わるか、と考えると、50年前の人たちから見て現在までの時代の変化は到底想像できなかったはずなんです。同じように、次の50年には今までよりももっと劇的な変化が起こる。今後、日本の人口がどんどん減少していくことはすでに生まれた日本人の数から決まっているので、昔のように人口が回復することは有り得ません。そういった人口動態を前提に、地球環境や世界情勢の変化を含め、若い人たちが今後50年を生きていくには、今以上に様々な困難に直面するでしょう。それを乗り越えることは容易ではないし、「学び続けましょう」だけで済ませられることでもありません。

ジェンダーの問題やメディアの報道の自由、社会福祉の切り詰め、異質性に対する許容度の低さなど、日本社会に潜む多様な問題を解決するためにはどうしたら良いのか。その答えは、自分がどういう立場にいてどうやってそこまで到達できたのかを理解し、問題に対して当事者として向き合うことです。自分自身は順風満帆に思えたとしても、社会は自分だけではできていませんから、さまざまな問題が人生の中では必ず自分に跳ね返ってくるタイミングがあります。その時に備えるには、あくまでも自分自身が社会の一員で、人とのつながりの一端としての当事者である、という自覚を持つこと。この当事者意識は、ビジネスにおいても今まで以上に問われることになると思います。

(対談/佐藤 直人